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いい年したオジサンたちの寒い会話 |
11月。ニューヨークの夜はかなり寒い。秋実に合図されて外に出た俺は、上着を着たままで良かったと思った。秋実はウールの分厚いセーターを着ていたが、多分すぐ寒くなるに違いない。俺たちはそれまで部屋の中で喧嘩していて、ちょっと興奮状態だった。おまけに俺は、泉に久しぶりに会ったにも関わらず、感動のハグもキスもしないまま、突然、秋実に殴られ、表に出ろと合図されたのだ。サム・アダムスを一本恵んでもらったくらいで、簡単に許せるわけないのだが、寒さがそのかっかしていた熱をあっという間に冷ましていく。 さっき、殴られたときに、口の中がちょっと切れた。じんわりと血の味がしはじめていたので、俺はビールをひとくち口にして、芝生の端に吐いた。 「っつ……」 冷たいビールがしみる。 「痛かったか。珍しく油断してたな、お前」 秋実はテラスにぶら下がっているブランコにだらしなく座った。 「油断してたって、当たり前だろ。あそこで殴られるなんて思うか、普通」 俺はもう一口、ビールを口にした。 「爺さんが泣くぞ。俺にやられたなんて聞いたら」 「『未熟者!』 って投げられただろうな。昔なら。もう今はヨボヨボだが」 秋実と俺は子供の頃から、俺の祖父の正一に連れられて柔道場に通っていた。秋実は14歳でUSに渡り、それからは形空手に転向している。俺と違って、ヴァイオリンは割と真剣にやっていたから、そのほうが良かったんだろう。俺も秋実が空手を始めたと聞いて、少なからず影響を受け、遅まきながら空手もやった。だから俺は両刀使いで、祖父に言わせると素性の悪いチャンポンなのだ。 「――徹のことを思い出すんだ……彼女を見てると」 秋実が言った。 「思い出すって、何で……? 彼女、まさか……」 俺はテラスの手すりに腰掛けていたが、思わず身を乗り出した。 「ああ、いや、違う。それは確実。俺は今日、検査結果も見せてもらった。彼女は溶血性貧血。徹とは違う」 「だったら何で……」 秋実の亡くなった兄、徹は美少年というのがぴったりの子供だった。病気がわかる前からずっと色白で、顔は秋実や正親に当然良く似ていた。日本的な切れ長の目で静かに微笑むその感じが、何と言うか、俺たちと一つしか違わないはずなのに、いつもずいぶん大人に思えた。 「徹もそうだったが、彼女もあまり何も言わないだろ。ちょっとした我侭って言うか、人に頼めばすぐやってもらえそうなことでも、絶対頼まない。全部自分でやろうとする。徹もそうだった。死ぬ間際でさえ、身体がどんなにつらくても、痛いとも、苦しいとも言わなかった。俺にしてみたら、あんな恐ろしいことはなかったのに。異常だよ」 徹は子どもの頃から、まるで子どもらしくない奴だった。 緒方の三兄弟と俺は、まだ小学校に上がる前から、同じヴァイオリン教室に通っていた。小学校の高学年になる頃、俺たちはヨーロッパ帰りの恐ろしい秦基夫という教師の下でビキビキに教え込まれることになったのだが、そこそこ無難に課題をこなすのは正親、全く危なげないのが徹。そして、怒られるのはいつも俺と秋実と決まっていた。秋実はふざけすぎ、俺はヴァイオリンがそもそも嫌いだった。 俺が覚えている限り、徹はただの一度も文句を言われたことが無い。教えればすぐにそれを吸収していくスポンジのようだった。むしろ秦の方が徹の指導にのめりこんでいる感じだった。徹はヴァイオリンの神童だったのだ。左手の指はとても子供とは思えないほど繊細に動いたし、ボウイングは滑らかで無駄が無かった。それよりなにより、あいつは子どものくせに、音に対してものすごいこだわりを持っていた。譜面にかかれた音符の一つ一つに意味があることが、あの年でわかっていたのだ。 それなのに、徹は病気にかかった。 「俺は徹が何も言わずにじっと耐えてるのを見るのが嫌だった。だから、いつか、どこかで医者にならなきゃって、あいつが何も言わないで耐えてるときに助けられるようにしたいと思ってた。まぁ、俺の道は本当はそっちじゃなかったわけだが」 秋実はほっぺたを膨らませて、ビールを半分くらい口に入れた。 14歳になった時、秋実はボストンへ行くことになった。もう前からわかっていたことだったが、秋実は数学にものすごい才能があった。だから、先にUSで学生になっていた正親と一緒に学校に通うことになったのだ。 ボストンに渡る直前、俺は秋実と一緒に病院に入院していた徹のところへ見舞いに行った。その時のことはまだ、鮮明に記憶に残っている。秋実が一度は医者にならなければと思ったのはその時だっただろう。 「秋実、おまえ大人になったら何になりたい?」 病室の窓から入る明るい光を背中に受けながら突然、徹が訊ねたのだ。 「さぁ……なりたいものなんてないよ。ただ大人になるんだろ」 「夢のないやつだな。これから『アメリカ』に行こうってのに」 徹は半分あきれたように笑っていた。 「じゃあ、おまえは何になりたいんだよ」 秋実が訊くと、徹はその真っ白い顔を少しかしげた。 「そうだな……」 そうして口の端を少し上げた。 「俺はもしこのまま大人になれたら……医者になりたい」 「医者? ヴァイオリニストじゃねーのかよ」 意外な答えだった。 「ああ。ここには俺より小さいのに苦しんでる子供がたくさんいる。あいつらが俺より先に逝くのを見てるだけなのはいやなんだ」 俺はその答えには内心、痛みを覚えた。秋実も同じ気分だっただろう。「ちぇ、まるでドラマの主人公気取りだぜ」とつぶやいた。 ヴァイオリニスト……当然だと思っていた。徹がならなかったら、一体他に誰がなるっていうんだ。けど、医者……? 秦もかわいそうに。あんたの一番弟子はヴァイオリニストじゃなくて、医者になりたいらしいですよ。あっはっは。 さすがに秦の目の前では口に出来なかったが、俺は秦に叱られるたび、心の中でそう叫んで溜飲を下げていた。 そうして、徹のかわりに秋実が医者になった。が、軌道修正して、秋実はまた自分の進むべき道に戻った。大きな回り道だったが、それが最も自分に合ってると、ヤツもわかったらしい。 ビールを持つ手がもう冷えてきた。話も寒い。 「泉ちゃんは徹と同じ匂いがする。自分を究極に追い込んだ先の何かを探してるみたいな……Mの気を感じるわけだな」 俺は秋実をにらんだ。秋実の言うことはまさにそのとおりかもしれなかったが、人の彼女をそんな風に言うか。ヘンタイめ。 「泉は……確かに、慣れてないんだ。誰かに頼るとか、甘えるとか。思いっきり甘えさせようと思って、結婚するつもりだったんだが……何で素直に甘えてもらえないんだろうな……」 俺は頭を抱えた。 「お前がちょっとした事で、良く考えもしないですぐ泉ちゃんに怒るからだろ。昔からちっとも変わってないよな。その短気なとこ。大体、おまえらおかしいよ。お互い相手のこと考えてやってるつもりがぜーんぶ裏目に出てて。泉ちゃんはおまえに心配かけまいとして何にも言わない。おまえは泉ちゃんが何も言わないからって怒ってばっかり。彼女は面倒なことは絶対に言わないってわかってんだから、お前がそこをちゃんとフォローしてやらないでどうすんだよ。一体いくつ上だと思ってんだ。いい年したおっさんが」 「おーお、フェミニストに変身したヤツは違うね。言うことが」 「そんな口たたいていいのか? やらねーぞ、これ」 秋実がポケットから取り出したのはコンドームだった。 「あっ!」 しまった。俺は東京で秋実から電話をもらって、あまりにも急いでここにやってきたので、そんなものを用意するのはすっかり忘れていた。というより、そもそもそんなものが必要になるとは思っていなかった。実はこれは2回目だ。前に、軽井沢に泉を迎えに行った時も、秋実にそれを渡されたのだ。 「ばかめ! けっ」 秋実がそれをポケットにしまいかける。 「よこせ!」 俺はブランコに座ったままの秋実の手からそれを無理やり取り上げた。 「――1個だけかよ?」 取り上げたブツを確認した俺は秋実をにらんだ。 「あのなあ、彼女は病気なの。お前がやりたいようにやっていい身体じゃないの。言っておくが、治療中は子供はダメだぞ。絶対」 秋実に言われてはっとした。そう言えば、この前、彼女にやりたい放題した時、彼女の部屋にそれが無いのを知ってて、自分が持っていたにも関わらずつけなかった。もう今更遅いが。 「――そうなのか……」 秋実は頷きながらビールの残りをグビグビ飲んだ。 「そうなのさ。まぁ、せいぜいがまんして長持ちさせるんだな。けど、あんまり疲れさせるなよ」 ああ、憎たらしいヤツ。俺も残りを一気に飲んだ。身体がぶるっと震えた。 「そろそろ頭も冷えただろ。俺はもう付き合わんよ。これ以上ここにいたら風邪引く」 秋実はそう言って立ち上がり、中に入って行った。 俺は秋実の背中を見ながら顔をビタビタたたいて、月を見上げた。たぶん徹も笑ってるだろう。いい年して、我慢の足らないオジサンになった俺を。 |
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