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 カデンツァ 第一章   


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レグノ・デリソーラ本社の7階役員室は、落ちかけた夕日で真っ赤に染まっていた。

森嶋正一が森嶋楽器というピアノの製造販売からはじめたレグノ・デリソーラは、いまや音楽業界を中心に、年商80億を売上げる多角企業体である。

レグノ・グループは、音楽業界での媒体販売、子会社のアリオンという東京首都圏の音楽教室などの運営、そしてごくわずかではあるが、完全受注生産の超高級ピアノや木管楽器の販売から成り立っていた。

森嶋廉はその役員室におかれた立派なデスクで、今日行われたアリオンの店長会議の報告をまとめている。

今日の会議はなかなかうまくいった。あの様子では彼らもとうに感づいていたに違いない。表ざたになってはいないが、アリオンは業績が非常に悪く、このままではつぶれるのは時間の問題だ。

皮肉なことだが、状況がわかっていないのはアリオンの社長である叔母の礼子だけかもしれない。

廉は今日、アリオンの各店長に業績を細かく提示して見せた。普通の企業ならやって当然のことを礼子はやっていない。

店舗ごとの売上、教室の数に対する生徒の数、その経費と売上の比較、各店舗の周辺にある競合教室の生徒数、売上予想、今後6ヶ月、1年のそれらの予想、全体からの赤字補填率など、その資料には、首都圏で20店舗あるすべてに対してほぼ1ヶ月で行われた調査結果が載せてある。

自分の店舗がどのくらいの成績なのか、一目でわかるように、廉はほとんどの比較資料にランクとチャートをつけたものを公開した。今まで何も管理されてきていなかった店長たちは、突然それらを突きつけられて愕然としていた。

別にしてやったりというつもりはないが、日々ただ店にきて時間を過ごせばよいという考えは捨ててもらわねばならない。廉はそうはっきり宣言した。

彼らの赤字を補填しているのは親会社のレグノであり、レグノ自身がそれほどの高利益もあげていないのだから、これ以上の補填はできないというのは当然のことだ。

もちろんここまでアリオンを放っておいたレグノに責任があることは間違いないが、半年で赤字を解消できない店はたたむことも考えていると廉が説明すると、やはり店長たちの間からはどよめきが起こった。

中には寝耳に水のような発言をするボケた店長もいたが、ほとんどはその案にうなずいていた。そうせざるを得ないことを彼らも理解していた。

廉は業績の回復のためには、レグノ側はできる限りの協力をすること、また今後は年功序列ではなく、業績重視の評価をしていく予定であることも併せて伝えた。そのためには面倒なことをやってもらわねばならない。

1週ごとに売上実績と予想、店舗改善にかかわる報告書をあげること。普通の会社なら当然のことだが、月報さえ作っていなかった彼らにとっては大変なことだ。

廉もずっと前からわかってはいたが、彼らの中には音楽業界と言うかなり特殊な業界で育った温室育ちのものが結構な数でいる。

彼らは本当は店舗を維持するのさえ難しい状態だろう。いったいどういう基準で店長を選んだのか、廉には礼子のやり方もまったく理解できなかった。



会長の孫とは言え、レグノ・グループの跡を継がないと過去に宣言した廉がここにいるのは、その子会社のアリオンが数年前から大きな赤字を出すようになったからだった。

正一が引退した後、レグノ・デリソーラの社長は廉の父である匡が、そしてアリオンの方はその妹である礼子が継いでいる。

めまぐるしく変化する音楽業界で渡っていくよりは、音楽教室の運営の方がずっと安定している。正一はそういう理由で礼子に音楽教室の運営の方をまかせた。

しかし、アリオンはこのところ徐々に大きな負債を出すようになってきている。

それぞれの店舗業績が悪いこともさることながら、アリオンの本部でも何か不正が行われているのではないか。

廉がアリオンのそのことを感じ始めたのは、つい1ヶ月ほど前、自分のいるコンサル会社の上司からの呼び出しを受けた時だった。

レグノ・デリソーラを継ぐつもりもなく、米国の経営コンサル企業に就職していた廉は、今年の初め、自分の会社の上司からレグノ・グループのコンサル依頼の話が来ていることを知った。

特に廉を指名してきているので、受けるかどうするかを訊ねられたのだ。

父からは何も聞いてはいなかったが、正月に会った祖父が廉になにやらぼやいていたのはそのことだったのだ。

正一は息子の匡とは意見が合わなかったが、廉の言うことには耳を傾けた。

祖父が息子の匡ではなく、孫の廉を非常に買っているのは周知の事実で、廉もそのことはうすうす感じてはいた。

客観的に見て、父の匡は音楽業界でのレグノを何とか現状維持しているだけだし、礼子にいたっては会社をつぶしかけている。

廉はそれでも祖父が会長でいる間は知らん振りを決め込んでいた。父もいるのだし、自分が出る幕ではないと思っていたからである。

しかし、正一もいよいよそういうわけにいかなくなった。アリオンへ金が流れていくことを銀行が嫌がり始めたのだ。

その結果、レグノの方への融資がこれまでのように行かなくなってきた。レグノの商売は流動資産から来るものが多いので、融資が少なくなると商売の幅も小さくなってしまう。

これからやろうとしているポピュラークラシックのクロスオーバー・プロジェクトなど、立ち上げられるべくもなかった。

そういうわけで正一は裏から廉に手を回した。廉は仕方なくその仕事を受けることにし、日本へ戻ってきたのだった。

しかし、廉はそれまで勤めていた自分の会社ハーヴェイ&スウェッソンはやめずに、同僚のデイビッド・ブレナーと共に理事職でレグノデリソーラに出向という形を取った。

自分の行く先は自分で決めたかったし、こんなに大きくなった事業体を世襲で受け継ぐのもおかしい。これだけの企業なら、当然そこに見合った人材がいるはずだ。

先週、祖父の正一は子会社であるアリオンの取締役会を緊急招集した。

取締役会といっても、廉の叔母でアリオンの社長である鳴海礼子とその息子の哲也、それに亡くなった叔父、鳴海の二人の弟である鳴海典弘と久志だけである。

正一がその取締役会で、レグノ・グループから会計について監査を入れること、またアリオンの業績回復のために廉をアリオンの副社長にすることを議題にかけた。このことは鳴海典弘と久志にはあらかじめ根回しがされていた。

実際、アリオンの業績が本当に危ないところに来ており、何とかして欲しいと正一に泣きついたのは鳴海典弘だった。

亡くなった鳴海の弟たちは自分たちではもはやどうにも出来ないことを知っていたし、礼子を説得できるのは正一しかいないと考えていた。

自分の会社に甥の廉がやってくることを礼子は非常に嫌がった。息子の哲也は礼子には逆らわないが、廉がいろいろアリオンの内部に入り込み、腹を探られることを心配していた。

もしかしたら、当然哲也に行くはずのアリオンも廉に取られるかもしれないと思うと、礼子は気が気ではないようだった。

取締役会議では何と哲也までもが廉たちを迎え入れることに賛成した。礼子は怒り狂ったが、哲也が反対しようが賛成しようが、正一が議案に出したものに逆らえるものは誰もいない。

そういうわけで、廉は出向したレグノ・デリソーラ本社から、さらにアリオンへ再出向することになったのだった。


この1ヶ月、廉とデイビッドはレグノで経営の見直しを続けていたが、レグノの方は基本的に可もなく不可もなく、それほど大きな問題はない。

レグノはその方針として、時期が来ると飽きられるようなミュージシャンを抱えていなかったし、そのために莫大な利益を生む者もいなかった。

そもそも廉の父、匡がそこまでの欲を持っていないのだ。もちろん、いずれもっと利益を生むような見直しは必要だ。

大きな問題を抱えているのはアリオンだ。デイビッドと廉はアリオンの経営状態を調査し、不正が行われていることをすぐに感じ取った。

廉はこのことを自分の会社に報告すると共に、レグノからアリオンへ人を送り込むよう祖父の正一と父の匡に進言した。そして、これに応じた祖父が取締役会でのことを決めたのだった。


覚悟の上とはいえ、廉は叔母の会社に行くのは気が進まなかった。いとこの哲也に悪いような気もしたし、本当はこんなことをしたくはなかった。

だが、このまま行けばアリオンは倒れる。哲也もわかっていながら手を下さなかった。

もうどうしようもないのだ。

廉はデイビッドをレグノに残してアリオンへ行くことにした。デイビッドにはアリオンの経営状態をレグノ側から見張ってもらう必要があった。

一方、廉はアリオンへ行ってからやらなければならないことを確認していた。傾きかけた会社を立て直すということは大変なことだ。自分にとっても社員にとっても。

アリオンには200人ほどの従業員と契約社員、アルバイトの講師、スタッフがさらに200人以上いる。

まだ明らかにはしていないが、首都圏で20あるうち、採算の悪い4つから5つの店舗はつぶさねばならないかもしれない。

これは頭の痛い仕事だった。おまけに従業員は半分ぐらいにしなければならないだろう。そうでなければもはや打つ手がない状態まで悪化しているのだ。

取締役会議の結果を急いで報告書にしたため、自分の上司にメール送信したその時、机の電話が鳴った。

「Are you ready to go? 」

デイビッドだった。

「Just finished」

廉はノートPCを閉じて電源を抜き、カバンにしまいこみながら答えた。