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 カデンツァ 第一章   


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もう誰も居ないはずの廊下の奥からピアノの音が聞こえる。まだどこかに生徒が残ってたかしら?泉はレッスン室を次々に覗いて誰もいないのを確認しながら、自分がいたレッスン室の前にたどり着いた。

扉のガラス越しに中をのぞくと、何と森嶋がピアノを弾いている。ショパンのマズルカ……

この人、ピアノ弾く人だったんだ…泉は少し身構えながら重い扉を静かにゆっくり開けた。

森嶋のピアノを聞きながら、泉は自分の置きっぱなしのかばんを手に取り、森嶋の方に向かって立ち止まった。私が入ってきたことは多分気づいているはず。

「あのこんばんは昨日はお花を」

「君はなかなかやり手だな」

礼を言いかけた泉に、森嶋がピアノを弾きながら言った。

「さっきの新しい生徒。結局、君のクラスがいいと言ったようだね。それも個人レッスン」

森嶋はふっと一人笑いしたが、弾くのをやめなかった。

一体、何が言いたいの?泉は美しい旋律の広がりに一抹の不安を覚えた。

「今度、僕も君のレッスンに参加してみようかな。ピアノにしては珍しく男が多いらしいが、一体どんな風にやってるのか、興味がある」

森嶋はそう言って、泉を見るとピアノの手を止めた。

「それはどういうことですか?」

泉は、どうしてこんな言い方をされるのか理解できなかった。自分はただのアルバイト講師だが、仕事はきちんとやっているつもりだ。それ以上に言われることなんてないはず。しかし、森嶋は一瞬にやりと笑って言った。

「僕が同じ手ではまりそうになったのかどうか、確認したいだけだ」

一体、何を言ってるの? この人は 泉はうろたえ、言葉を失った。練習していこうと思ったけれど、もう今日は帰ったほうが良さそうだ。

「失礼します」

泉はようやくそれだけ言って、走って教室を出た。


泉が走り去った後の教室で、一人残った廉は、腕組みをしながらしばらく物思いにふけっていたが、突然、ピアノの鍵盤をバンとたたいて不協和音を部屋いっぱいに響かせた。

やってしまった。また余計なことを言ってしまった。今日は本当に食事に連れて行くつもりだったのに。

Jで初めてあった時からの失礼な出来事をちゃんと謝って、きっかけを作るつもりだった。

彼女のあの曲を、どうしてももう一度聴きたかった。それなのに

あの新しい生徒が、彼女に近づこうとしているのがなんだか気に入らなかったのだ。

あいつが「個人レッスン」と言ったとき、その意図は見え見えだった。

それなのに、彼女はまるで高校生みたいにぽかんとしてただけだ。

それにしても。ちらと頭を掠めただけのことを、あんな風に口にしてしまうとは。

あれじゃまるでセクハラじゃないか。そうして廉ははっとし、顔を上げた。

確かめたいと思っているのは、彼女の才能?それとも、もしかして彼女自身?

まさか。まだ彼女のことなど何も知らないのに。

その考えを否定するために廉は頭を振った。確かにきれいな女だ。しかし

しかし、何だと言うのだ?才能があってきれいなら、誰でも欲しがるのは当たり前だ。

これから本当の彼女を知ろうとして何が悪い?

廉はピアノのふたを閉め、明かりを消してレッスン室を出た。