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 カデンツァ 第一章   


                        -15-


夕方、泉はアリオンのバイトに向かった。火曜日の夜に学校で呼び出しがかかっているので、6時のレッスンを別の回に振り替える必要がある。

幸いこのコマは個人レッスンの生徒で、連絡もすぐ取れ、翌週以降にレッスンをすることになった。

5時のレッスンにはいる前、泉はスタッフルームを確認して森嶋の姿を探した。昨日、花をもらったお礼を言っておかなければならない。

しかし、森嶋はそこにはいなかった。いないのなら仕方がない。先延ばしになっただけだが、彼に会わずに済んで泉は少しほっとした。

ちょうどそこへ副店長の高梨がやってきて、泉を呼び止めた。

「吉野さん、今日、見学の方がいらっしゃるのでお願いね。グループレッスンをご希望なので、6時の回で」

「あ、はい。女性ですか?」

「いいえ。男性です。そう言えば、あなたのこの時間のグループは男性が多いんだっけ?おかしいわね。ピアノは女性の方が断然多いのに」

高梨が鋭い目つきで泉をにらんだ。余計な事を聞いてしまった。泉は一礼してそそくさとその場を逃げ出した。

温子の機嫌が悪くなる前に、いなくなるに限る。そうでなくても温子は泉と真紀の二人のアルバイトを心良く思っていないのだから。

初めのグループレッスンと個人レッスンを済ませると、泉はその後の空き時間で今日、青山を怒らせたベートーヴェンのソナタを練習しはじめた。

月光の第3楽章。青山を怒らせはしたが、泉はこの曲が実はとても好きだった。

譜読みを適当にしかしていかなかったのは、今はできないけれど、好きだからいずれは自分でものにできると甘く見ていたからかもしれない。

結局、それが青山に見破られたのだ。泉は今日は真摯に譜面に向かい、うまく弾けないところを繰り返しさらっていった。

練習を始めて20分ほどすると、アルバイトの事務スタッフがレッスン見学の生徒を連れてきた。

「あの、お名前は?」泉が訊ねた。

「小澤悠征です」

小澤は涼しい目が印象的なやさしい顔をしている。

「ベートーヴェンですね。僕もベートーヴェンは好きです。弾けませんけど」

気持ちのいい笑顔。早くうまくなって、こんな人に聞いてもらいたいと、泉は心の中で思った。

「そうですか。私もこの曲は好きなんです。まだまだなんですけど」

泉が微笑むと小澤も笑みを返した。不思議な人。なんだかほっとする。

「どうぞこちらに。まだ他の生徒さんは来られてません」

泉は小澤をレッスン室の中へ通して一番前の電子ピアノの前に座らせ、自分も隣のピアノの椅子に座った。この教室にはアップライトピアノが2台あり、後の3台は電子ピアノだった。泉が一人の生徒の課題を生ピアノの方で見る間、他の生徒たちは電子ピアノで練習する。

「小澤さんはピアノのご経験は?」泉が訊ねると、

「子供の頃、ソナチネまでは何とか。小学校を卒業するまでかかったんです」

小澤はちょっと下を向いて、照れながら答えた。

「まぁ、男の子で小さいうちにソナチネまで終わる人は少ないんですよ。でも、嫌いにならずに、また戻ろうとされているんですね?」

「ええ。できればショパンのエチュードの1曲くらいは弾けるようになりたくて。他にも弾きたい曲はたくさんあるんですが」

「みなさん、少しずつ弾けるようになられますよ。ここはグループレッスンのクラスですけど、グループがご希望ですか?」

「まだ決めてはいないんですけど。他の方がどんな風にレッスンしてるのか興味があるし、グループの方が刺激になるかと思って」

「そうですね。グループもなかなか楽しいですよ」

泉はピアノのふたを開けながら答えた。他の生徒たちも一人、二人とやってきて泉はレッスンを始めた。

2時間後、レッスンを終えて泉は生徒たちと一緒に教室を出た。小澤を除くグループの生徒たちがエレベーターに乗って帰っていった。ちょうどその時、もう一つのエレベーターから廉が出てきた。

既に9時を回っているが、外出から帰ってきたのだ。お互いに目が合って、一瞬驚いた。

廉は口の端をちょっとあげたように見えたが、泉は廉の隣に千葉がいるのを見て、廉に小さく会釈し、それ以上何も言わずに小澤の見学が終了したことを受付に告げに戻った。花のお礼は今でなくてもいい。

受付で待っていた小澤に、受付のスタッフは別のレッスンを見学したかどうか訊ねた。小澤は泉のレッスン見学でもう4回目だと答えた。

「先生は、個人レッスンはされていないんですか?」

突然、小澤は泉の方を振り返って訊いた。

「ええ。もちろん、やっていますけど」

「僕は、先生の個人レッスンを受けたいと思います」

泉も受付のスタッフも驚いて小澤を見た。グループがいいと言っていた小澤が、なぜこんなことを急に言い出したのか良くわからないが、受付のアルバイトのスタッフは泉の方をちらちら見ながら「そうですか、では吉野先生の空き時間を探しますか?」と訊ねた。

泉は驚いて少しためらいながら、スタッフの時間割表を見ながら、一緒に空き時間を探した。


結局、小澤は土曜日の一番最後の時間、21時から30分の個人レッスンを行うことになった。これまで土曜日は9時で終わりだったのだが、30分伸びることになる。

まぁ、30分だし。小澤がどうしてグループではなくて個人がよくなってしまったのか、なんとも不思議だったが、生徒が一人増えるなら、それもいいだろう。

「テキストはこちらの教室で決まったものも用意できますけど、もしご希望なら、小澤さんの弾きたいものを持ってきていただいてもかまいません。大人のクラスなので」

泉が問うと、小澤は「じゃあ、少し手持ちの譜面で練習してきます」と答えた。

「来週からよろしくお願いします」

小澤が帰るのを見送って、泉はレッスン室に戻るため長い廊下を歩いた。