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 カデンツァ 第一章   


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翌日、泉は大学の演奏レッスンで、担任教師の青山を怒らせてしまった。前回のレッスンでようやくシューマンを一曲仕上げた泉は、次の課題としてベートーヴェンのピアノソナタをやることになっていた。

青山のレッスンが厳しいことは学内でも有名で、たとえ初めて弾く曲でも譜読みを終えてこなければならない。しかし、泉にはこの長い曲を今週すべて見てくるほどの余裕はなかった。

青山の前で詰まりながら半分弾いたところで、泉の手は動かなくなってしまった。そこまで耐えるように聞いていた青山はもう我慢できなくなったとばかりに、ピアノの上に添えていた手でピアノのふたをバンとたたいた。泉は驚いて椅子から立ち上がりそうになった。

「君は譜読みもせずにこのレッスンに来たのか。やる気がないなら来なくてよろしい。お互い時間の無駄だ。帰りなさい」

バリトンなのに凍るような恐ろしい声を聞いた泉は、青山の方から身をひき椅子から立ち上がった。そして、譜面をつかんで一礼し、逃げるように小さなレッスン室を出た。

廊下を走って講義の行われていない教室に逃げ込んだ泉は、教壇に一番近い席に崩れるように座ってため息をついた。これまで泉はこんなに叱られたことはなかった。少なくともピアノの事に関しては。しかし、いよいよ難しいところまで来てしまったのかもしれない。

青山は知っているのだ。練習する時間もないほどアルバイトをしていることを。

少し前にも青山は別の講義で「金がなければ音楽などできない。アルバイトをやりながらここに通うなどありえない」と言っていた。そのとき、ちらと泉の方を向いたのだ。

まるでおまえのことだと言わんばかりに。


やっぱり無理だったのかしら

泉は自分を振り返った。特にいつもと変わらない生活。もともと練習時間は少ない。青山が満足するようなレベルではないだろう。ただ、今週の自分には集中力がなかった。集中できなかった。練習する手が止まることが度々あった。あのことが気にかかって

しかし、それは本当に言い訳だ。結局、寝る間も惜しんでやるべきことをやらなかった自分が叱られただけ。そんなことはわかっている。

泉は自分の手で顔を覆った。結局、無理だったのだろうか? 自分にはどうやってもできないことなのだろうか?

閉じたまぶたの下に涙がにじんだ。

せめて父が生きている間に、ここに来ていれば。高校にいた時、自分の才能など気にしないでここに進学していれば、少なくとも生活費の心配をしなくても済んだ。他の生徒たちと同じように、自分のことだけ考えていればよかった。もしそうだったら、今よりは練習ももうちょっとまともにできて、学校以外でももちろん先生につくこともできて、足りない腕も練習でカバーできたかも。

馬鹿だ。何を今更泉は頭を振った。

初めに音大に行かないと決めたのは私。そして就職した後に、食べていけないかもしれないけどやれるところまでやってみようと考えたのも私。

今更戻れない。本当にだめになるまでやるしかない。だって、これは自分で選んだことだから。

こんなところで泣いたって、どうにもならないでしょう?泉は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいて、また顔を上げた。目の端からにじみ出た涙を指でぬぐって、泉は自分の顔が変になっていないことを確認した。

今日は土曜日なので、午後は授業がない。午後は夕方からアリオンのバイトが入っているが、それまではいつもお昼を真紀や博久たちと一緒に食べて過ごしている。午前が終わるまでまだ30分ほどある。泉は一講目の和声の課題を済ませてしまうことにした。

昼を過ぎて、泉は購買でサンドイッチを買い、いつもお弁当を広げる教室に移った。真紀は既にそこにいて、紙パックのジュースにストローをさしていたが、泉の姿を見るなり言った。

「ああ、泉!聞いたわよ。あなた、音教コンクールの候補に選ばれたんですって?」

「ええ?」

音教コンクールと言うのは、音楽教育振興協会が主催するコンクールで、12月から予選が始まり、2月に本選がある。この大学からも毎年、学部から何人かそこに出場する候補が選抜され、それに向けて特別な講習が行われる。このコンクールでは優勝すると海外に留学する権利を得られる。

泉は自分が少なくともピアノ科の中では下から数えたほうが早いくらいの位置にいると考えていたので、そんな話はにわかに信じられなかった。

「まさか。へんな冗談言わないで」

泉は否定したが、真紀は真剣だった。

「冗談じゃないわよ。さっき花村先生から聞いてきたんだから。ピアノ科からは富田さん、本田さん、北村さん、博久、それにあなた」

真紀のいつもと比べて妙にとげのある言い方に信憑性があった。もちろん同じピアノ科にいたら、誰だって候補に選ばれたい。まして私が入るくらいなら、どうして自分がと真紀が考えても不思議ではない。泉は言葉を失った。そこへ博久がやってきた。

「おお、泉さん。僕たちなんだか大変なことになりそうだよ」

博久はいつもの通り、元気に声をかけた。

「どうして私が

泉はひとりごとのようにつぶやいた。

「青山先生らしいよ。泉さんを推薦したの」

博久の言葉に泉は息が止まるほど驚いた。

「うそ。まさかそんなことあるわけない。だって私、さっきのレッスンだって、先生を怒らせて、出てけって言われたんだから……何かの間違いよ。多分」

しかし、博久と真紀はもっと驚いていた。

「ちょっと、ねぇ。青山を怒らせて、出てけって言われたの!?ほんと?」

博久は天井を仰ぐようにして、教室の椅子にどっかと座った。

「信じられない。泉さん、いったい何したの?」

「何って

泉はなんと答えたらよいかわからず、下を向いた。

「練習できてなくて……だから、ほら。たぶん、私は取り消しになると思う。やっぱり、間違いだったって」

博久と真紀は顔を見合わせ、お互いどう思っているか確かめるようだった。

「まぁ、一応掲示板は見ておいたほうがいいよ。もうすぐ張り出されるらしいから。俺は今朝のマッチーのレッスンで聞いてきたんだけどさ」

マッチーと言うのは町村幸一郎という、ピアノ科では青山と並んで大御所の教授だった。ピアノ科では年度の初めに、生徒の各担当教師が決まるが、5人いる教師に対して、ほとんどピアノのうまいと思われる順に青山と町村に振られている。

博久が町村のところへ決まったのは誰が見ても当然だったが、泉は自分が青山の生徒になったのはただの偶然だと思っていた。それなのに

なんだか気まずい雰囲気が漂っている。そこへ同じくピアノ科の同級生、奈々子がやってきた。

「あら、どうしたの。なんだかみんな暗いわね。博久君も、泉さんもコンクールの候補になったって言うのに」

奈々子はにこやかに教室の席に座って、お弁当をかばんから出した。奈々子のお弁当はいつも彼女の母親の手作りである。

「ああ、そういえば、二人に出頭命令が出てたわよ。火曜日の夕方18時に器楽科の教務室にくるようにって。私、今ちょうど、張り出されるところを見てきたの」

「え!もう張り出されてるの?」

博久はもう身体が反応して立ち上がっていた。

「ええ」

奈々子の返事も聞かず、博久は教室を出て行った。

「お昼食べかけなのに」

奈々子は博久を非難がましく見送りながら、自分のお弁当箱を開けた。奈々子のお弁当は本当に毎度うらやましくなるくらい色とりどりでおいしそうだ。泉は人のお弁当を覗き込む趣味はなかったが、奈々子のだけはいつもどうしても目がいってしまう。そして、大概顔を見合わせて、幸せな気分を分けてもらうのだ。

「泉さん、おめでとう。でも、ちょっと大変になっちゃったね」

奈々子はそう言って泉に微笑んだ。

「うん。でも、まだわからないから。これって何かの間違いだと思うのよね」

どう考えても間違いだろう。こんなことがあるわけがない。泉は全く信じていなかった。

「間違い? そんなことないよ。私、泉さんのピアノ好きだもの。泉さんのピアノは色が見えるみたいだもの」

奈々子の微笑みに、泉は気持ちが晴れていくような気がした。お世辞でもこんなことを言ってくれる友達がいるなんて幸せだわ。泉はもう、このことであまり悩まないようにしようと思った。どうせ、近いうちにはっきりすることだろうし。

泉が候補になったのがあまり面白くなかった真紀は、奈々子のこの発言を聞いて少し考える風だったが、しばらくして泉に言った。

「確かにそうね。泉のピアノは、確かに、時々その曲に合った画像がふっと浮かぶことがあるわ。色が見えるってそういうことでしょ?」

「そうそう。真紀ちゃん」

笑顔でいっぱいになった奈々子に、真紀も泉もそれまでのちょっとぎすぎすした雰囲気がどこかに飛んでいくのを感じた。奈々子はまるで小さな魔法使いだ。彼女の存在が幸せを振りまいている。

「いつもじゃないけど、泉のピアノは時々、なんていうかどきっとすることがあるわ。それが何か私にはわからないけど、もしかするとそれが評価されたのかもね」

不思議なことに、さっきのとげとげしさが真紀からなくなっていた。

「青山に負けないようにやらなきゃね!」

真紀の力強い言葉に泉は、「間違いでなかったらね」という言葉を飲み込んだ。