まさかその腕で……
あなたそもそもピアノは向いてないんじゃないの?
青山と高田の声が泉の頭の中に交互にこだましている。
「向いてない」
なんて痛い言葉。胸がきりきりする。
アリオンに向かう地下鉄の中でも、アリオンで生徒たちを教えている間も、ずっとこの言葉が泉を悩ませ続けた。自分に才能がないことは良くわかっている。けれど、才能をカバーできる努力もあるかもしれないと信じてやってきたのに。
泉にとっては作曲で推薦されたことより、ピアノがダメだと言われたダメージの方が大きかった。グレーだった自分の未来に、本当に幕が下ろされてしまったかのようだった。
「先生、じゃ、また来週」
今日の最後の生徒たちが帰っていくのを、やっとの思いで作り笑いして見送った泉は、レッスン室の扉を閉めて、窓際の椅子に力なくへたり込んだ。部屋の隅の壁に身体を持たせかけて、見るともなしに窓の外へ目をやる。繁華街の色とりどりのネオン。明るすぎて見えない星々。
疲れた。今日は本当に疲れた。
この先、どうにかうまくピアノで食べていければと思っていた。演奏家になるなんて大それたことは考えていない。どんな仕事でも良かった。アリオンに残って、ピアノ講師のままで仕事を増やしてもいいし、だめならJのようなところでラウンジプレイヤーをやってもいい。
とにかくピアノを弾いていられれば良かった。多くは望んでいない。ただそれだけのことなのに、どうしてこれほどまでに向いていない、向いていないと言われなければならないのだろうか?
森嶋は「腕の問題」と言ったが、それは本当のことで、良く分かっているし、青山のレッスンで叱られたのも、練習していかなかった自分が悪いことはわかっている。
けれど、私のピアノを聴いたことがないであろう高田までもが、ピアノに向いていないのではないかと言った。
だからどうしたというのだ。ピアノを諦めろというのか?ピアノを弾いてはいけないのか?
スカートの上で、涙がぽとりと音を立てた。
別にピアノに真剣に向かっていないわけではない。誰かにこの大変な状況をわかって欲しいとも思わない。けれど、ピアノに向かう自分を否定されるほど、半端な気持ちでやっているわけではない。
ベージュのスカートに涙のしずくが突然降り出した雨のようにぼとぼと落ちていたが、泉はその色が変わっていくのに気づかないまま、ぼんやり窓の外を眺めていた。
泉のレッスンがこの時間、廊下の奥の5番教室であるのを廉は知っていた。だから、外出から帰ってきて、千葉と打合せするのにわざわざその隣の4番教室を選んだのだ。彼女が帰ってしまう前に、できれば一言、声をかけたかった。
しかし、5番教室の扉にはまっているガラス越しに泉の姿を見たとき、廉ははっとして動けなくなった。
窓から入る夜の明かりが泉の白い顔を照らし、頬の筋が小さな粒となって、きらきら光りながら次々に泉の服に落ちていく。
廉は中に入るつもりだったが、そうするのをためらってじっと泉を見ていた。その姿があまりにも美しくて、ガラスの額縁の中にはまった一枚の絵のようだったからだ。美しいのに痛々しい、心が締め付けられるような光景。廉はそのまましばらく教室の外からガラス越しに泉を見つめていた。
「森嶋さん!すみません、お待たせしました」
スタッフルームの方から千葉の大声が廉を呼んだ。その声は生徒のいなくなったレッスン室の泉にも聞こえた。はっとして扉の方を振り返ると、廉がガラス越しにこちらを見ていた。
廉の顔には泉を気遣う表情が浮かんでいた。が、突然、くるりと向きを変えて千葉の方に向かって叫んだ。
「ああ、千葉くん。やっぱり場所を変更しよう。L8教室で」
やってきた千葉を押し返すように、廉はもと来た廊下を戻って行った。泉は涙を手でぬぐいながら、森嶋が扉のガラスの狭い視界から消えていくのを見た。
見られた。こんなところを…よりによってあの人に。
泉は教室を出た。そして廉のいる8番教室の前を大急ぎで通り過ぎ、講師室にもよらずアリオンを出た。
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