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 カデンツァ 第一章   


                        -19-


「ああ、お母さん。お父さんは帰ってますか」

もう11時を回っている。廉は腕時計を見ながら携帯の先につながっている母、裕子に訊ねた。

「ええ。帰ってますよ。あなた、この間のお見合いの件ね

いつもすぐ電話を切ってしまうので、母は話をしたくてうずうずしているようだ。

「そのことですけど、今日これからそっちに行きます。お父さんにそう伝えておいてください。じゃ、またあとで」

廉はそう言って、携帯を切った。

あの調子だと、おそらく先方から連絡があったに違いない。一体、どういう返事だったのか。向こうから断ってくれていれば良いが車を走らせながら、廉は顔を曇らせた。

もし、この話を進めるようなことになったら、後々厄介なことになる。理恵は面白い女性ではあるが、自分が結婚する相手ではない。

そこははっきりさせておかなければ。廉は父の匡に釘を刺すつもりだった。

問題は、理恵の祖父がインベスター銀行の頭取だということだ。

インベスターには廉が来る前から融資相談をしていたが、これまで良い返事をもらったことはなかった。

しかし、廉がアリオンに来てから、新規事業の提案を根気良く続けたことで、ようやく耳を傾けてくれるようになり、融資の話が持ち上がった。

もし、インベスターがここからはずれるとなると、また新しく出資してくれる銀行を探さねばならない。このままビジネスはビジネスと割り切ってくれると良いのだが

だめなら別のところをあたるしかない。廉はハーヴェイ&スウェッソンの伝を考えていた。

いずれにしても、もう1、2行はあたってみるつもりだったのだから、まぁ、その時期が早くなっただけだ。

家にたどり着く前に考えがまとまった廉は、電話した時よりははるかにいい気分になっていた。

ガレージに車を入れて家の中に入ると、裕子が玄関で待っていた。

「おかえりなさい。お父さまがおまちですよ」

匡は既に寝巻きで居間のソファに座ってウイスキーを飲んでいた。

「今日は店にいたのか」

「いいえ。帰りに寄ってきただけです。顔だけでも出しておかないと、スタッフに緊張感がなくなってしまうので」

「そうか」

匡は満足気にウイスキーグラスを口にした。廉がアリオンに戻ってから、アリオンはだんだん上り調子になっている。

「まぁ座れ。おまえも一杯やれ」

廉は首を振った。「車で来ているので」

匡が言う前に、グラスを用意しようとしていた裕子がそれを聞いて振り返った。

「こんな時間なのに、帰るの?泊まっていけばいいのに」

一旦家を出てしまってからは、なかなか寄り付いてくれない息子に裕子は不満をもらした。廉は聞かなかったフリをしてソファにすわり、話を切り出した。

「今日来たのは、この間のお見合いの件です」

匡がにやりと笑って廉を見た。

「なかなか美人のお嬢さんだっただろう。和田が紹介してくれたにしては、結構なあたりじゃないか。これでインベスターも、融資に四の五の言わなくなる」

「お父さん」

廉はアルコールが入って饒舌になった匡を制した。

「僕はまだ結婚する気はありません。それに相手も探してもらわなくて結構です」

ご機嫌だった匡の顔が一変した。

「付き合ってみるぐらい、いいじゃないか。向こうは是非進めてくれと言ってきてるんだぞ」

結局、理恵の方からは断ってもらえなかったのか廉は頭を振った。

「でも、僕はその気はありませんから。お父さんが断れないなら、僕が断ります」

「理事と付き合いがあるのは私だ。おまえの出る幕じゃない」

「言わせてもらえば、もし結婚相手を探すのなら、それは僕がすることであって、お父さんがすることじゃありません。出る幕じゃないのはそっちでしょう」

「なんだと」

廉は自分ではきわめて冷静に話しているつもりだったが、自分の言葉が匡をどんどん怒らせていくのはわかっていた。

父とはいつもこうなる。自分勝手な考えで人を振り回そうとして、話を聞こうとしない。

学生でいるうちはそれでも養われている身だったので我慢していたが、自分で働くようになってからは、廉は自分の考えを曲げるようなことはしなかった。

「とにかく、和田理事に僕は彼女とはお付き合いしませんとお伝え下さい。もし、お父さんが自分でやらないなら、僕が直接断りに行きます」

そう静かに言って廉はソファから立ち上がった。匡は廉をにらんだまま動こうとはしなかった。

「廉!」裕子があわてて止めようとしたが、廉は裕子に笑って言った。

「じゃ、またね。おかあさん」

父と母は喧嘩になるだろうか?しかし、この件に関しては、あの電話の感じからしてたぶん母も乗り気だったのだ。まぁそんなにうまくは行かないさ。廉は車を出した。


廉が自分のマンションに帰ると、デイビッドから留守電が入っていた。

「やあ、レン。そっちはどう?来週の週末に、ルーシーがこっちに来ることになった。誰か迎えに行かないといけないんだけど、僕たちは、ビーチャムバンクの人たちとゴルフに行く予定だったよね?バイト代払うので、成田の出迎えに誰か心当たりがあったら教えてください。じゃあ、明日また」

ルーシーと電話で話したんだな。廉はいつもたどたどしい日本語を使おうとするデイビッドが、ちょっと早口の英語で話しているのを聞いて、そう考えた。

さて、誰かいただろうか?廉はシャツを脱ぎながら風呂場へ向かった。