11時を5分回った。礼子は息子の哲也がやってくるのをじりじりしながら待っていた。
就業時間中に抜け出してくるのが難しいことはわかっていたが、こっちは緊急事態なのだ。大体、お金は振り込んでくれればそれでいいのに、自分で持ってくるというからこんなことになる。
きっと小言を言いたいに違いない。礼子はまだ半分も吸っていないタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
12時には銀行の人間がやってくる。それまでにどうしても哲也からお金を受け取っておかなければならない。手形のチェックをしようと自分のバッグをあけたところで、部屋のチャイムが鳴った。
哲也だ。礼子は立ち上がって玄関に出迎えに出た。
ドアを開けると、哲也は暗い顔で礼子をにらんで、何も言わずに玄関に入った。
「久しぶりに親の家にきたって言うのに、何か言うことはないの?」
礼子が言ったが哲也はそれを無視して、かばんを開けて中から厚い封筒を取り出した。
「金だ」
礼子の手がぱっとそれに飛びついたが、哲也はその手を払いのけるようにして封筒を引いた。
「持ってきてくれたんでしょ?」
「そうだよ。だけど、そんなに簡単に渡せないよ。だってこれ、ものすごい大金なんだよ。わかってる?」
哲也は礼子をにらみつけた。
「わかってるわよ」
礼子は言いながら哲也の手の中にある封筒を取ろうと背伸びした。
「僕が貸してあげられるのはもうこれで最後だからね。これでだめなら後は破産してもらうしかない。僕は面倒みられないから」
「破産だなんて、縁起でもない」
哲也の手の中にある封筒を恨めしそうに見ながら礼子は言った。
「絶対、盛り返して見せるから。本当よ」
この愚かな母親が言うことを信じられる人間なんて誰もいない。この手の中にある300万も捨て金だ。
礼子は日比谷に小さなブティックを持っている。開店当初こそ知り合いが来てくれて、多少服も売れたが、この店にはすぐ人が来なくなった。
礼子は置いている服が悪いとか、コンサルを入れるとか言って、これまでにも既に2000万近くを哲也から引き出してきた。
哲也はA店の店長だったが、この金を融通するために、やっていもいない架空の教室内工事や、有名なプレイヤーの名前をかたった演奏会をでっち上げたりしてきた。
けれどもうこれで最後にしなければ。アリオンには廉が戻ってきており、こんなことをあの目ざとい廉が見逃すはずがなかった。
哲也はこの忌々しい母親をこれきり見捨てるつもりだった。
本当はもう金輪際、金を融通するつもりはなかったが、今日ここにやってくるだろう債権者はアリオンとも付き合いのある銀行だった。礼子に金を貸した銀行の営業が直接、哲也のところに電話をしてきたため、どうしても金を作らないわけにいかなかったのだ。
「そんな言葉は信じられない。本当にこれで終わりだから」
「哲也…いくら廉が帰ってきたって言ったって、あいつはレグノを継ぐつもりはないって言ったんでしょ?順当にいけば、後を継ぐのはあなたしかいないじゃない」
「お母さん。廉はレグノを継ぐよ。きっと。あいつじゃなきゃ、やっていけない」
「なんて弱気なこというの?大体、これまで店がうまくやってこれたのはあなたのおかげでしょ?どうしてあなたが社長になれないのよ」
何度も状況を説明してきたが、礼子には何を説明しても無駄だった。彼女は自分の理解したいことだけ受け入れる。つまり、受け入れられないことは理解できない人間なのだ。
「そんなに言うならお母さんも社長に立候補してみれば。もともと森嶋楽器の人間なんだし、全く権利がないわけじゃないだろ?」
「馬鹿なこと言わないで。生前相続で私の持分でもらったお金で店を作ったこと知ってるでしょ?」
だったら、その息子にも権利がないということはわからないのだろうか。
哲也は小ばかにしたように母親を見た。
「まぁ、とにかく僕をあてにしないで。じゃあ」
「哲也!」
哲也は礼子に封筒を押し当てて、玄関を出た。
もう二度とごめんだ。母親がどうなろうと知ったこっちゃない。
哲也はせいせいした気分でマンションを出、昼の光を浴びた。
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