その夜のJでのステージは全く気が乗らないものだった。できることなら誰かに代わってもらいたいくらいだ。
昨日、高田の研究室を出た後から、アリオンに行っても、教室で授業を受けていても、泉はずっとぼんやりしていた。
これから一体何をやればいいんだろう。誰からも勧められないピアノをやるよりは、作曲に行った方がいいんだろうか?
けれど作曲なんて、できるかどうかもわからないのに…
そうして、結局自分がピアノをやってもだめだということに泉はひどく消沈していた。
その日の最後のステージがようやく終わって、客に向かって頭を下げているとき、泉は入り口に一番近い、ステージから見えにくい席に廉が座っているのに気がついた。
一瞬、廉と目が合ったが、泉はそのままそそくさとステージを降り、従業員の控え室に下がった。
控え室のソファに腰掛け、テーブルに置かれているお茶に手を出したところにフロアマネージャの佐伯がやってきた。
「泉ちゃん。森嶋さんってお客さんがご指名なんだけど」
森嶋の名前を聴いて泉はびくっとした。このまま何事もなく帰れるなんて甘かったわ。泉は自分でも白々しいと思いながら、曇った顔で佐伯に言った。
「…すみません。今日は…もう帰ったって言ってもらえませんか。ちょっと気分が悪いので」
佐伯は「そう」と言って部屋を出て行こうとしたが、立ち止まってまるで独り言を言うように首を傾げた。
「そりゃあ残念。あの人、自分は一滴も飲まないのに、女の子には飲ませてあなたを待ってたみたいだけどね」
もちろん聞こえるように言ったのだ。泉は耳の辺りが熱くなるのを感じた。
昨日アリオンで、ガラス越しに見た森嶋の心配そうな顔が頭に浮かんだ。だからと言って、森嶋に何かを期待するなんてばかげている。
泉は自分の気持ちを振り切るように首を振って深呼吸し、着替えるために更衣室に向かった。
気温が低いわけではないのに、霧雨をあびていると身体が冷えてくる。
ついさっきまでピアノを弾いていたせいで温まっていた体が、段々冷たくなってくるのを感じながら、泉は店を出て通りをぼんやりと歩き始めた。
こんな生活をいつまでつづけるべきなんだろう?
私のピアノは少し音楽がわかる人にはダメだといわれてしまう程度のものらしいのに……好きならきっとなんとかなると思ってやってきたけれど、そんなに甘いものではなかったのかもしれない。
泉が視線を通りに戻すと、向かいの車道から人が出てくるのが目に入った。
どんどん近づいてくる人影をぼんやり見ていた泉は、はっとしてそれが森嶋だったことに気づいた。泉はそこから動けなくなった。どうしていいかわからなくなってしまったのだ。
森嶋は急いで道を渡って泉の前に立った。少し息があがっている。そして、大きく一つ深呼吸して元にもどり、泉に言った。
「そんなところでいつまでも立ってたら風邪をひく」
泉の顔を見つめる森嶋は暖かい目をしていた。嘘をついたことを怒っているわけではないようだ。
「…森嶋さんこそ…こんなところで……」
泉は疲れきっていたが、森嶋のこれまで見たことのない優しいまなざしには、泉を安心させるような何かがあった。
「君に誤解されたままでいたくなかった。2度も余計なことを言ったから」
廉は照れたように下を向いた。
「それに…」
言いかけてやめ、廉は泉を見つめた。泉には森嶋の言いたいことがわかるようだった。あの気遣うようなまなざし。
私が泣いていたから。たぶん。アリオンの教室で、そして今ここで。
アリオンのオフィスで何度か見た硬い表情の森嶋と違って、今日の森嶋は優しい雰囲気だ。
「家まで送って行こう。もう遅いし」
森嶋の申し出はありがたかったが、泉は微笑みながら首を振った。
「じゃあ、駅まで」
泉はそれにも首を振った。駅までと言ったって銀座の駅はすぐそこだ。
「君は僕には何もさせてくれないんだな」
廉は不満そうだったが、泉がそうすることはなんとなく予想はついているようだった。
「それじゃ、一つだけ。これだけは言っておく」
廉の真剣なまなざしが泉を捉えた。
「僕はこの間、アリオンで君にすごく失礼なことを言った。それは謝る」
泉は森嶋が何を言ったのか、もう正確には思い出せなかったが、確かにそれは失礼な発言だった。
「だけど、花につけたカードは、僕の本心だから」
廉はそれだけ言って、霧雨の中を去っていった。後姿がいつまでも泉の頭の中に残っていた。
泉はしばらくその場でぼんやりしていたが、廉の言葉が耳で鳴っている間に歩き出した。彼は……何と言った?
僕の本心?
傘がなかったので銀座線を降りて、部屋に着いたころには泉の頭はかなり濡れてしまっていた。しかし、傘を持っていない惨めさを忘れるくらい、泉の心臓は高鳴っていた。
あのカードに書いてあったのは、確か
「あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。あなたの1ファンより」
だったか…
ああ、きっと部屋の本棚の上に置いてあるはず。泉はそれを思い出して真っ赤になった。
そう、結局捨てられなかった。花に罪はないから、枯れたものだけ順番に捨てていって、今はもう開く気配のないバラのつぼみとかすみ草が何本か残っているだけだ。けれど、カードは…
あんなに気分を悪くしていたのだから、捨てていてもおかしくなかった。それなのに、泉はなぜかそれを本棚の上にほうっておいた。
本当か嘘かはわからない。それが、書き直した方がよいと言ってもらえるくらいの、ほんのちょっぴりでも、自分の作ったものに価値があると認めてもらえた、初めての証拠かも知れないと思ったからだ。
慌てて靴を脱ぎ、洗面所のかごのなかからタオルを一枚引っ張り出した泉は、頭をふきながら部屋の本棚の上を探した。子犬の写真が入ったフレームの後ろに、カードは置いてあった。
「今日は残念ながら行けなくなりました。あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている1ファンより」
泉はあらためてこの小さなカードを見てため息をついた。
そう、「もう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている…」
こんな言葉だったんだ。真剣にあなたのことを考えている…?
泉はまるで顔に火がついたような気がした。心臓の血管がどくどくしている。
これって……泉はタオルを握り締めてばかな考えをやめようと自分を押しとどめた。
まさか。これは大人のリップサービスだ。27にもなるのに、高校生みたいに単純に喜んでどうするの。
泉は自分で首を振った。そして、カードを元のところにもどした。
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