10時に阿部から携帯にメールが入っていた。
「今日は予定がなくなったよ。どこかで会えますか」
それに気がついたのは3講目があと30分になった時だった。真紀は阿部からメールをもらったことがうれしくてしようがなかった。
阿部先生に会いたい。今すぐ会いたい。
4講目は出席を取らない音楽教育論だから、サボっても大丈夫。その後6時からのアリオンのバイトまでには大分時間が取れる。
「1時間後に青山のこの間のカフェで」
真紀は机の下でメールをこっそり打って送信した。
阿部先生に会えるなら、もうちょっとおしゃれしてくるんだった。
じりじりしながら講義が終わるのを待ち、教師が講義の終わりを告げると同時に真紀は立ち上がり、隣に座っていた泉に言った。
「私、ちょっと行くところがあるから、次のノートお願い」
「そうなの?」
どこに行くとはっきり言えなかった。泉は不信に思っているに違いない。
「ノートはいいけど、バイトは?」
「それまでには戻るから」
6時からのレッスンだから、アリオンには5時50分ごろ入ればいい。けど、本当に戻れるだろうか。あと3時間もない。
真紀は泉の心配そうな顔を見ないようにして教室を出た。
青山のオープンカフェのカラフルなテントの下に阿部はタバコを吸いながら座っていた。テーブルの上にはハイネケンの小瓶が置いてあり、グラスに注がれた中身ももう半分になっていた。
「すみません。大分待ちました?」
真紀は青山一丁目の駅から走ってきたので、顔が上気している。
「いや。こんな時間だけど、もう一杯やっちゃってたよ」
阿部はそう言ってグラスを持ち上げ、残りを飲んだ。
「ああ、さっきメールしてから気が付いたんだけど、今日、アリオンに行く日じゃなかったっけ?」
「ええ。でも今日の生徒さん、別の日にしてほしいって先週連絡をもらってるので、大丈夫なんです」
真紀は阿部に訊かれたときのためにつく嘘を考えてきていた。今日は本当は6時からの生徒が3人、8時からの生徒が2人いる。あとで、どこかで泉に電話しよう。
「そう。ふうん」
阿部はそれほど気にしている様子もなく立ち上がった。
「コール・ポーターの映画が封切りになってるだろ? あれ、見たかったんだよね」
渋谷の百貨店をうろうろした後、二人は映画館に入った。ようやく席についた時、真紀の腕時計は既に5時50分を回っていた。阿部がコーラを買ってくると言って席を立ったので、真紀はその隙に泉にメールを打った。
「今日アリオンにいけなくなりました。副店長に言っておいてください。お願いします」
慌てて送信し、携帯の電源を切る。こんなところで誰かに邪魔されたくはない。
一方、アリオンの講師室でメールを受け取った泉は声にこそ出さなかったものの、非常に慌てていた。折り返し何度も電話したが、真紀の電話は切られているようだった。
もう50分を回っている。6時からの生徒が来てしまっているのでは?
泉も6時からのグループレッスンが入っていたが、準備どころではなくなってしまった。早く副店長の高梨に知らせなければ。
温子はもともとアルバイトの学生には厳しい人間だったから、できれば店長の鳴海に相談したかったが、今日は鳴海は休みを取っていてアリオンに来ていなかった。それに、講師たちの責任者が温子であることは間違いない。
スタッフルームに入る前、泉は温子に何と言って報告したら良いか考えた。まさか真紀がメールしてきたままを言うわけにもいかない。とりあえず急病と言うことにしておこう。意を決して泉は中に入った。
「あの。高梨さん」
パソコンの前でしかめっ面をしていた温子が顔を上げた。
「何? 今忙しいのよ。後にしてもらえないかしら」
温子は毎週、森嶋に報告書を提出するように言われていた。これが最近、毎日大変な悩みの種になっている。
「すみません、今ちょっとだけ、お願いします」
「一体何なの?」
温子は思いっきり嫌な顔をしている。
「あの。石井さん今日、具合が悪くて来れないそうなんです」
「具合が悪いですって? 彼女のレッスン、もう始まるんじゃないの?」
ああ、キタ! 温子が立ち上がった。もともと背がある上にハイヒールをはいているものだから、かなりの威圧感がある。
泉は思わず後ろに下がりそうになった。
「いつ連絡もらったの? どうしてもっと早くに言わないの! 生徒はもう来てるんじゃないの?」
立て続けに言って、温子はスタッフルームをすたすたと歩いて受付ロビーに向かった。泉も後に続く。
受付に置いてある講師スケジュールのファイルをぱらぱらとめくって、温子は腕組みした。
「よりによって、グループじゃないの。8時の回もある! 一体、どうするのよ!?」
どうすると言われても…泉は答えに困った。
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