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 カデンツァ 第四章   


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二人が席に戻るとすぐ、舞台が暗転した。

そんなにうろうろしていたかしら…と思った泉の耳に、真っ暗のステージの向こうから、テナーサックスの音が聞こえた。

まだカーテンは下りたままだが、ステージの上には少数ではない、大勢の人間がスタンバイする空気があった。

真っ暗な中、静まり返ったホールにサックスの音だけが響いている。


はじめ、サックスの奏でているメロディが泉にはなんだかわからなかった。


何だろう、これ……なんだか知っているような気がするのにわからない。


32小節。長いソロの後、聴こえはじめた歌声に泉ははっとした。


綾子さん!


綾子が幕の向こうで「大切なあなた」を歌い始めた。

サックスの音と絡まる綾子の声。泉は震えながら廉を見た。廉は微笑んで泉の手を強く握った。


幕がするすると上がった。

観客席がざわめき始める。

当然だ。「大切なあなた」は先月、USで既に10万枚を売り上げている。クロスオーバー部門は息も長く、ゆっくりチャートをあがってくるので、この勢いは異例だった。

日本ではCDの発売予定はないが、海の向こうに敏感なメディアが今月に入ってから次々にこのCDを取り上げた。日本からニューヨークの綾子のところへTVやラジオへの出演依頼、雑誌の取材がひっきりなしに来ていると廉が言っていた。

日本でもラジオやネットではもう何度もオンエアされている。この曲を知っている人間も大勢いるはずだった。


もしかしたらとは思っていた。

あの時、三軒茶屋のあのライブハウスで、彼らが口にしたのは綾子のことではなかったかと。

けれど、まさか本当にそんなことが……。

綾子はクラシックが専門だし、他のジャンルをやる歌手がいないかと言えば、そんなことはないだろうが、まさか綾子が…


誰がこんなことを想像できただろう。つまり、これは綾子の日本での再デビューということだ。



「大切なあなた」の1コーラス目が終わると、ステージのライトがまるでフラッシュをたいたようにまぶしく光った。

Beats12は「大切なあなた」を真昼の夏のビーチを思わせるアレンジで演奏しはじめた。

16で刻むラテンビートのドラムの上に気持ちよくドライブするベースが乗り、今まで聴いたことの無いハスキーで力強い声で綾子が歌う。これに金管が応えるように入り、綾子との激しい掛け合いとなった。

綾子がそんな風に歌うのも、自分の曲がそんな風にアレンジされるのも、泉にとっては大きな衝撃だった。曲が終わり、観客の拍手やはやし立てる口笛の中、バンマスの高橋佳樹がマイクを取った。

「今晩は。Beats12の高橋佳樹です」

女性の黄色い声がした。Beats12が最後に演ることはもちろんわかっているので、佳樹目当ての人たちがいるのだろう。


「今夜、このリチェルカーレのこけら落としに呼んでいただけて、大変光栄です。おまけに、今日は本当の12人目のメンバーが戻ってきてくれました」


やっぱり……やっぱりそうだった。

泉は廉を見た。廉はただ笑っているだけだ。

「今晩は。ヴォーカル担当の一宮綾子です」

観客の歓声がひときわ高くなった。

こんなことを誰が予想しただろう。これを知っていたのは一体誰?

廉がピンクペッパーに連れて行ってくれた後、泉は自分で彼らの事を調べた。12人目が誰かを知りたかったからだ。

けれど雑誌のインタビューのどれを見てもそのことについては語られていなかったし、ずばりインタビュアーの「12人目は誰か?」という問いにも、「いずれわかるかも」というあいまいな答えしか載っていなかった。

廉は12人目が「海外で勝負している」と言っていたが、泉はそれはもしかしたら徹のことではないかと思っていた。徹は確かに海外で成功しているのだから。

綾子がという考えがないわけではなかったが、クラシックの世界にいる綾子がこういうバンドの何かをするなどとはとても信じられなかったのだ。


「ええと。ご存知の方は少ないと思いますが、一宮綾子は僕たちのバンド出身です。なーんて言うと、君のご主人に後で殴られるかな。今日はいらっしゃってるんだっけ?」

佳樹が綾子に訊ねた。

「ええ、来てます。そちらの袖の方に」


綾子が指した方を向くと確かにステージの下の袖の方に徹と秋実がギネスの缶を持って立っていた。徹が替わりにここだと手を挙げる。

「あちらの、長谷川徹さんの隣にいらっしゃる方です。徹さんともお知り合い。だよね?」

「ええ。主人の友人です」

「こんなところから何ですが、今度ぜひ一度僕たちと演ってください。お願いします。こういう伝は大切にしなくちゃね」

徹がまたビールを持ち上げて「いいよ」と合図した。

「長谷川さんが一緒に演ると承諾してくださいました。ここにいる皆さんが証人です」

観客が拍手する。佳樹はこういうライブハウスで観客の心を掴むのがうまい。女性にもてるルックスを持っているだけではなく、何を言ったら観客が喜ぶかよく知っている。


「さて、僕たちの話に戻ります。さっき一宮綾子が歌ったのは、『大切なあなた』。僕らはこの曲を聴いて、正直やった! と思いました。またこっちに戻ってくるつもりがあるんだなと」

「あら、そうだったの?」

「うん。この曲を書いたのが日本人で、君がべたぼれしたって聞いたから」

綾子はその言葉を聞いて、ぱっと赤くなった。泉は自分も同じように頭に血が上っていくのを感じた。

「そうなんです。私、本当にその作曲家におぼれそうになりました。いえ、おぼれてます。ひところ、寝ても覚めても、この人の曲が頭の中を回っていて…この人と仕事がしたくて……。今年は日本に戻って来ることが多くなりそうです」

それって私のこと?

泉は自分の胸を押さえていた。心臓がどきどきしてる。

「今までなかなか帰ってこなかったのにね! 一宮綾子がおぼれたと言っている僕たちの嫉妬の的のコンポーザーは、今、目の前に座っています。吉野泉さんです」


泉はまさか自分が指されるとは思っていなかったので、真っ赤になって廉に助けを求めた。

廉は笑って泉に「大丈夫だから」とささやき、泉の手を取って観客に向かって立たせた。

泉は口から心臓が飛び出しそうな気分で観客席とステージに向かって頭を下げ、何とか席についた。


「今日はひときわおきれいですね。泉さん。僕も一番初めにお会いした時に、もしお隣の彼氏がご一緒でなければ絶対にお付き合いお願いしてました。けど泉さんは、このレグノ・グループの理事である森嶋廉さんとご婚約されたそうです」

観客がはやし立てる中、廉が泉に言った。

「あいつがそう言ったのはまんざら嘘じゃない。君は綾子さんにすごく似てるから」

確かに、自分では良くわからないが、綾子に会ってからいろいろな人に何度かそういう風に言われている。

「高橋さんは綾子さんのことが好きだったの?」

泉が訊ねると廉は思い出したように笑った。

「ああ。君も知ってる佳樹のあの曲…『サイドウォーク』は綾子さんへの失恋の果てに書いた曲だよ」

そうだったんだ……。

泉は綾子がどんなにいろいろな人の心を奪ってきたのか思いをはせた。

罪な人だわ……。私のように普通の人間だけでなく、ご主人や、高橋さん。それに一緒に演りたいと言って来ているという海外のアーティストの数々。


「では、泉さんに作ってもらった曲をもう一曲。本邦初公開。『めざめ』Beats12バージョンです」

その曲は、廉にダメだしをくらったあの曲だった。綾子が長い間待っていたというあの曲。

まだ病院にいるときに綾子から電話があって、一回だけ小さなコンサートで歌ってみたいので、それ用にアレンジしてもいいかと聞かれていた。

このことだったのだ。泉はこれを既にオケ用のスコアに書き換えていたが、それはまだ部屋の机の上に置きっぱなしだった。


泉が作ったそのメロディは、Beats12が演奏するのにぴったりのすばらしくノリのいい曲になっていた。そういうアレンジももちろんあるだろうとは思っていたが、自分でやるのはオケ用で十分だ。

他の手段があるのなら、それは他でやってもらえればいい。だから、泉は綾子にアレンジの話を聞いたとき、誰がやるかも聞かずにOKしたのだ。

綾子が間違ったことをするはずがないと思っていた。自分と彼女の考え方が似ているから。

琴線に触れるその場所が同じだから。


テーブル席では我慢できない客たちが立ち上がって、前の方で踊り始めている。泉も知らないうちに立ち上がっていた。

そうだ。音楽はこうでなくては。

泉は震えていた。

自分の曲だけれど、自分の曲ではない。綾子の声が、バンドが演奏する音が、そして踊っている観客たちが、自分の心臓に火をつけた。

身体の中を誰かに掴まれて、揺さぶられているようだ。


この恐ろしいほどめまいのする音…音…音…

「泉…大丈夫か?」

泉が震えているのを見て、廉がささやいた。

「ああ、廉さん、私……」

廉の手が泉の手を強く握った。

「僕が良いと言ったんだ。君の曲をアレンジするのを。悪かった」

「いいえ、違うの。違うのよ。私、ものすごく幸せ……こんな感じは初めて」

会場は騒然としていた。誰も他の人間など気にはしていなかった。隣に座っている正一でさえ。

泉がふいに廉の首に手を回した。廉はあわててその身体を抱きとめた。

「だって、頭の中が音でいっぱい。あふれそうなの」









(カデンツァ -完-)