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 カデンツァ 第四章   


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春の風が強く舞い始めた頃、廉と泉は有楽町に出来たアリオンのライブハウスのこけら落としに出かけた。

廉の怪我は浅く、刺された傷もほとんど残っていない。一方で、泉は入院が長引き、病院を出てからまだ一週間しかたっていなかった。

泉の腕の痛々しい傷は、決して大きくはなかったが、縫った後がまだきれいになっていない。廉はそのために、泉に腕の部分に美しい刺繍の入ったレースが使われているエキゾチックなドレスをプレゼントした。今日の泉は人目にさらしたくないくらいきれいだ。

部屋から出てきた泉を見て廉はため息をついた。彼女に自分のところへ来てほしいとずっと思っているのに、あの事件からそれを口に出せなかった。自分が彼女をあんなふうにしたのだ。泉は何も言わないが、本当ならうらまれても仕方がないくらいのことをしたのだ。

おまけに、それにもまして心配なのは、綾子がUSで出したCDが売れていることだった。

売れているのに心配と言うのも変な話だが、泉が作った例の曲のシングルCDがいつの間にかメジャーランキングの上位に上がってきているのだ。

そんな予感はあった。綾子の胸声は陶声に負けず劣らずすばらしい。

スキャットだけでも参加してほしいというアーティストが大勢エージェントに問い合わせしてきたと聞いている。

綾子が売れるにつれて、泉のところにも仕事の依頼が入ってくるようになってきている。当然と言えば当然だ。

泉は学校を卒業するまでは今のペースでしか仕事はしないと言っているのだが、周りがほうっておくだろうか?

廉は泉が自分の手を離れて遠くに行ってしまうような気がして、その胸中は複雑だった。


行きのタクシーの中で、廉は泉に今夜のプログラムを渡した。泉には徹とその友達が来ると言っていたが、泉はそれだけでいろいろな想像をしていたようだった。

プログラムを見て、「ああ」とか「ほうらね」とか、一人で楽しんでいる。しかしあるところで泉の目が釘付けになった。

「ねぇ、廉さん。今日、Beats12もでるの?おまけにトリ?」

「そうだよ」

泉の茶色い瞳が大きくなった。驚いたか!廉は得意気だった。

「この11+1って?」

Beats12のクレジットの後に括弧つきで記載された文字を指して泉は言った。

「それは後のお楽しみ」


泉はそれ以上、廉には何も訊ねなかった。あれこれ考えてもあと3時間ぐらいで結果はわかる。

もしかして、もしかして、もしかすると、例の人は……


アリオン直営のライブハウス「リチェルカーレ ricercare」にはすでに大勢の人が集まってきていた。普通のライブハウスに比べると天井が高い。ステージに近い真ん中の席はやや小さめのテーブル席で、壁際にゆっくり座れる席が配置されている。

泉は今日だけは真ん中の席に案内された。廉はやってくる関係者や会社の人間と話があるので、ステージが始まる直前まで席に来ない。泉は前に奈々子が言っていたように、一人でさびしい気持ちになった。

ふと見回すと、ひとつテーブルをおいた隣の席にさつきと廉の両親がいた。さつきは泉に気づいて手を上げた。

一人だと思っていたけれど、ああ、たくさん知ってる人がいる。と思ったら、泉のところに知った顔がやってきた。博久に奈々子、真紀にデイビッドもいた。彼らは廉が隣のテーブルを取っておいたのだ。

「泉さん!」

うれしさに声をはずませたのは奈々子だった。泉の腕のことをとても心配していて、デイビッドからはひところ眠れないほどだったと聞いていた。自分のためにそんなに心配してくれる人がいるなんて、何て幸せなことだろう。泉は本当に奈々子に感謝していた。

「具合どう?前よりは少し顔色がいいみたい」

「そう?ありがとう。もうぜんぜん大丈夫なの。傷もね、この調子だとほんとにきれいに直りそう。あとはリハビリだけ」

泉は自分の腕をかばうようにした。

「…泉さん、本当に作曲に変わるの?」

博久がさびしそうに訊ねた。泉は青山が病院に面会に来たときにその話をしておいたのだ。まだわからないが、自分の腕は以前のように動かない可能性が高いと。

そうなったら、ピアノを続けていくことは出来ない。青山は非常に残念がっていたが、それでも絶対に大学をやめないように言った。

少なくとも作曲に変わればこのままあと2年の過程を終わらせることはできる。泉は覚悟を決めた。

「うん。もう決めたの。ちょうどいいきっかけになったわ。きっとそうするべきだったのよ」

泉の言葉に痛みを感じていたのは博久と奈々子だけではなかった。その場にいた真紀が黙って泉の傷ついた腕に触った。

「泉の作った曲を歌ってみたい。私がデビューしたら私にも曲を書いてね」

静かに頷いた泉は真紀の手に自分の手を重ねた。



それからしばらくして廉が戻ってきた。哲也と正一が一緒にいる。入院しているときに、哲也も見舞いに来てくれていた。森嶋正一の勧めで今年、MBAを取りにUSに行くことが決まったと言っていた。

「邪魔して悪いけど、今日は一緒のテーブルらしいよ」

哲也は正一の車椅子をテーブルの良い位置につけて自分も座った。少し痩せたみたいだ。泉は彼の母親に起こった事を廉から聞いていた。

「隣がこんなじじいですまんな。けど、廉が独り占めするのは許せんからな」

「いえ、そんな…」

泉が否定するのを廉が笑って言った。

「泉、この爺さんは昔から男には冷たいが美人には弱いんだ。死ぬ前にたくさんおねだりしとけよ」

「おーお。泉さんのほしいものなら何でも買ってやる。何でも言いなさい」

廉が変な顔で正一を覗き込んだ。

「俺、そんなこと言われたことない」

「おまえになんぞ、言うわけなかろ」

ほんとに口の減らないくそ爺だ…廉が小声で言うのが泉には聞こえた。



ステージが始まった。

今日はお祭りだ。廉が長谷川徹に頼んでUSから有名なミュージシャンの友人を呼んでいた。徹の友人といっても有名なバンドのフロントマンばかりだ。

彼らがバンドの枠を超えてパフォーマンスすること自体がありえないのだから、このステージを見に来られた人間は本当にラッキーなのだ。


去年は雑誌で見ているだけだった遠い遠い世界の人たち…

こんなに近い存在になるなんて誰が想像しただろう。名のある人のコンサートに来るなんて事自体出来なかったのだ。自分にはチケットを買うお金もなかった。

ステージが始まってすぐわかったが、この会場のPAもすばらしく良い出来だ。泉は今度機会があったら、サウンドチェックを見せてもらおうと考えた。

泉は廉がこだわっていた環境が実際に出来上がった状態を見て、一体どれほどの時間をかけてチューニングをしたのか空恐ろしくなった。この人は、ただの経営コンサルタントではない。

もちろんそんなことははじめからわかっていたけれど。子供の頃からの音楽的な素養が、結局こういう形で表現されることになった。ここを使うことになるミュージシャンや一緒にやってくる音響エンジニアは、耳が良ければこのホールにどんなに手がかかっているかすぐにわかるだろう。



徹たちのパフォーマンスが終わると、一旦会場は明るくなった。レストランホール担当のスタッフがワゴンを押して各テーブルを回っている。

普段はきちんとメニューを置いてレストランがオーダーを取るのだが、今夜だけは簡単なコースメニューになっていて、飲み物だけ注文を取っている。

プログラムでは食事はスモールコースとなっていた。しかしホテルや飛行機で出されるような軽食とは程遠い、素晴らしいパーティメニューだ。

前菜のスモークサーモンから始まって、えびとホタテを使ったサラダ、それにオリーブオイルとねぎの香りが素晴らしい蛸の炒めもの。鱈とブロッコリーとトマトを彩りよく合わせた焼き物、やさしい味のポルチーニのリゾット。そして最後にレモンのシャーベット。

一つ一つが決して重くなく、最後まで楽しんで食べられるようにきちんと考えられている。廉は食事の途中で泉をそっとキッチンへ案内した。


廉が言ったように、このレストランのプロデュースは秋実の母親である緒方佳代がやっている。ここが軌道に乗るまでの3ヶ月ほどは佳代と一緒に料理教室をやっている一宮綾子の叔母、佐和子がここを手伝いに来ることになっていた。

キッチンは最高に忙しい時間だったので、泉はキッチンの入り口で廉と一緒にそっと中をのぞいたのだが、佐和子が誰かはすぐにわかった。

「本当に似ていらっしゃるのね」

廉はその様子を見てくすくす笑っている。

「後でちゃんと紹介するから席に戻ろう。次がはじまる」