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 カデンツァ 第四章   


                        -26-


「こぉら、夜中にどこに行ったかと思えば、恋人のところへ夜這い?明日連れて行ってあげるって言ったでしょう。どうしてちょっとの間、我慢できないの。このスケベ男!」

泉の病室の戸口に立って声を顰めて怒っていたのは、以前、アリオンのパーティで見かけたあの女性だった。

「姉さん」

廉が驚いて顔を上げた。お姉さん…そう、たしか…

「さつきっていうんだ。僕の姉」

さつきは病室の扉をぴったり閉じて、廉には怖い顔をして泉のベッドの近くまでやってきた。泉にはにっこり微笑んでいる。


「こんばんは。ごめんなさいね。こんな時間に、うちの馬鹿弟が…あら、あなた……」

廉はいたずらを見つかった子供のように、腕でさつきに殴られるのを防ごうとしていたが、さつきは泉に見覚えがあった。

「ああ、廉。この人だったの。この人だったのね」

さつきはあの時のことを忘れていないようだった。


「きれいな女性だと思っていたのよ。もし智香子さんじゃないなら、こんな人がって…あら、ごめんなさい。私、勝手な想像してたの」

廉には何のことかさっぱりわかっていなかったが、泉にはわかっていた。忘れようとしても忘れられなかった。あの美しい人たちの間で、自分はものすごく気後れしていた。

「すみません、まだ起きられなくて」

泉が言うとさつきは首を振った。

「こちらこそ、こんな時間にごめんなさい。それに…ありがとう。あなたが弟を助けてくれたんですってね」

「いいえ…そんな」

さつきはそれ以上言わなかったが、泉がピアノをやっていることも腕のことも知っているようだった。


「どんなに謝っても足りないくらいだわ…うちの家で、出来る限りのことはさせてもらうわ。ね、廉?」

さつきが言うのに廉は頷いた。

「さ、もうそろそろ帰らなくちゃ。廉、こんなことしてたら病院から追い出されるわよ」

廉はさつきにせかされて自分の病室へ戻っていった。



翌日、午前中に警察が事件の事情を聞きにやってきた。廉を刺した犯人はその場で大勢いた通行人に取り押さえられたらしかった。泉も廉も犯人がどうなったかは知らないでいたのだ。

泉は廉が哲也を怪我させたやくざに狙われていたこと、刺されるその時まで、誰かに狙われていたのに気づいていなかった事を話した。犯人が捕まったことでやくざの方も足が付き、亡くなった礼子が無理やり作らされたおかしな書類も家宅捜索の令状がでて押収された。

泉は何より、廉がもう誰かにつけ狙われることはないと聞いて安心した。


昼過ぎに廉とその家族が泉の病室にやってきた。泉は自分に罵声を浴びせた廉の父母と対面するのは気がひけたが、それでも逃げようがない。まして彼らは泉に謝りに来たのだ。

泉は自分からは何も言わず、ただ嫌な顔はしないように努力した。さつきはこの日のために、祖父の正一も連れてきていた。正一が言うことなら、誰も逆らうことは出来ないからだ。

さつきは弟のために一所懸命両親をフォローしようとしていた。廉の両親は心ならずも自分を受け入れざるを得ない状況なのだということが泉には良くわかっている。だから、泉も匡が「すまなかった」と言うのを素直に受け入れた。


また正一は泉が哲也ではなく、廉と結婚すると聞いて驚いてはいたが、早く式を挙げるように迫った。

「私も先が短いのでね。廉がちゃんとやっていってくれるってわかるところまでは何とか見届けたいんだ」


「はぁ。でも私、まだ学生なので、大学を卒業してからじゃないと…」

泉は言ったが正一は納得しなかった。

「大学なんぞ卒業せんでも結婚はできる。それにあんたはもうヨーロッパとアメリカでデビューしたと聞いておる」

「それはそうなんですけど…」

泉はベッドを半分リクライニングさせて起き上がっていた。車椅子の老人と向かいあって話をしていると、お互い病人のようで変な感じだ。

「お嬢さん。そういえばコンクールはどうしたのかね。作曲で出ると言っていただろう?」

本当に頭はしっかりしている。あの時話した事をちゃんと覚えている。泉は心の中で、この人には下手な嘘は通用しないと思った。

「先に綾子さんのCDが出ることが決まってしまったので、コンクールには出る資格がなくなりました」

「そうか…やっぱり早くに式を挙げることだ。あんたにも箔が付くだろうし、一宮綾子のCDも売れる」

正一はそう言ったが、さつきがそれをさえぎった。

「違うでしょ、おじいさま。泉さんがお嫁に来てくれたら、廉がレグノに戻ってくるんでしょ」

「はっはっは。見破られたか」

正一は大声で笑った。さつきは正一に感じが良く似ている。人を安心させる雰囲気を持った人だ。泉は穏やかな気分でいた。


廉の話では、綾子がレグノと契約するという噂が業界に広まって、レグノの評価を押し上げただけでなく、アリオンにも融資の話が来ていた。

おかげで廉が最終的に望んでいた音響工事の特別なオプションをやることも十分可能になった。

廉がどんなことを考えていたのかは知らなかったが、泉はまだ一度も足を踏み入れていない有楽町のライブハウスに早く行ってみたかった。