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 カデンツァ 第四章   


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誰にも見られたくなかった。自分の惨めな姿を。

本当のところ、どうなるかはわからない。どこまで回復するかなんて、誰にもわからない。けど、プロにはなれないのだ…大好きなピアノでは。

泉はその後、薬が効いて浅い眠りに落ち、いろいろな夢を見た。



子供の頃に通っていたピアノ教室。練習してかないときもあったけれど、先生はちっとも叱らなかった。

父も母も、私がピアノを弾くのをすごく楽しみにしてた。発表会で母の手作りのワンピースを着て…すそに付いたひらひらのフリルがかわいくて、くるくる回って会場の鏡の前で目が回りそうになったっけ。

中学でも、高校でも、音楽室にいるのは楽しかった。

ブラスバンドのみんなと練習が終わった後で、歌謡曲を弾きまくった。

大学では叱られてばっかりだったけど…それでもピアノを弾くのは楽しかった。

Jで廉さんにはじめて会って、どんなに自分がだめかもわかって…けど努力さえすれば、多くを望まなければ、この先もピアノを続けていけると思ってた。

そして何より、私には才能があると疑ってなかった母。「どこかに才能があるって思ってたわ…」

けど、お母さん…私、ピアノが弾けなくなるかもしれないの……


あまりにも悲しくて涙がどっとあふれた。もう、弾けないかもしれない…泉は自分の涙で目を覚ました。

病室は真っ暗だった。何時かわからないが、たぶん夜中だ。涙でぼんやりした視界の中、泉は自分のベッドの脇にだれかが座っているのに気づいた。



「泉……」

その声は紛れもなく廉だった。寝巻きの上にガウンを羽織っている。

「廉さん…どうして…起きてちゃいけないんじゃないの?」

廉の手がさっきまで涙を伝っていた頬にあった。

「良くはないけど…君が心配だった」

廉の指が涙をぬぐっていく。

「すまない…僕のせいだ。こんなことになって。君に何て謝ったらいいのかわからない」

泉は頬に当たった廉の手に自分の手を重ねた。

暖かい。この人の手はいつも。

本当は起きあがりたかったが、まだめまいがひどいのでそれはできそうになかった。廉の手に自分の手を合わせていると心が落ち着くようだった。

「廉さん…あなたが死ななくて良かった…」

泉は廉の手を頬に感じながらそう口にした。

ついさっきまで自分はもうピアノが弾けないのだと、そのことが悲しくて仕方がなかったのに、廉の顔を見た途端、その考えはどこかへ行ってしまった。

私はもしかしたら、この人を失っていたかもしれないのだ……ピアノのことなど天秤にかけるべくもない。

軽井沢で廉は自分に、生きていくために私が必要だと言った。

私もこの人が必要だ。自分が生きていくために。

「あなたが好き。あなたを愛してる」

廉はそれを聞いて自分の無精ひげの伸びた頬を泉の頬に寄せ、頭を抱いてしばらくそのままでいた。