その後泉が目を覚ましたのは病院の一室だった。
奈々子が「泉さん」と呼びかけた。泉は横たわった自分の身体を起こそうとしたが、ひどいめまいで起きられないことを知った。
「まだ起きちゃだめよ。ものすごく出血してたんだから」
奈々子は目にいっぱい涙をためている。
「心配したんだから…心配したんだから……もう、ほんとに…」
奈々子が泣き出すのを真紀がなだめた。
「廉さん…廉さんは?」
泉は自分が病院にいることを理解したが、すぐに廉のことを思い出した。
「森嶋さんは泉さんより先に手術が終わって、もう病室に入ったよ。命に別状はないって。泉さんがかばったから致命傷にはならなかったんだって」
博久が言った。
ほっとした泉はまた眠りに入った。暗くて冷たい眠りだった。
廉は生きている。生きているのだ。だから大丈夫…
けど、この腕はどうしたんだろう?左腕が…重い……
次に目覚めたとき、泉の隣には真紀が座っていた。腕が痛い。頭も痛い。口がからからに渇いている。泉がぼんやりしていると、真紀が話しかけた。
「お水飲む?」
泉が頷いたのを見て、真紀が水差しを口に持って行った。
「ありがとう、真紀…廉さんは?」
真紀は口の端をちょっとあげた。
「大丈夫。傷はそんなに深くなかったみたい。廉さんはすごい回復力だって。それより泉の方が心配。私、ちょっと看護婦さん呼んでくるね。起きたら呼ぶように言われてたの。あとで、ご飯も食べなきゃ。昨日は結局一日ずっと眠ってたんだから」
一日ずっと……そうなんだ。
真紀が部屋から出て行くのを見ながら泉は廉のことを考えていた。
彼の顔が見たい。大丈夫と言われても、この目で見るまではなんだか安心できない。泉は自分の左手にはまっているはずの指輪を右手で触ろうとした。
左腕の切られたところはまるでギプスでもはめられたかのようにがっちり固定されている。その時泉は初めて気づいた。
指輪は確かにそこにあったが、左手がしびれている。感覚が全くないわけではなかった。けれど……
真紀は看護婦だけではなく、医者も一緒に連れてきた。
これは良くないこと?泉は反射的にそう思った。真紀はそれが何か知っている。
「吉野さん。ご気分はいかがですか」
医者はさっきまで真紀が座っていた椅子に腰掛けて言った。
「ええ。ちょっと頭が痛いです。それから……左腕がしびれてるみたいです」
「しびれてる…そうですか」
医者は泉の左手の指をつまんで感覚があるかどうかを確認していった。
「私の左手、どうかしちゃったんですか」
一通り確認したところで泉が訊ねた。
「そうですね。切られたところは小さかったのですが、すごく深いところまで達していて、大きな血管が切れてしまっていたんです。ただ刃物が鋭かったせいもあって、断面はきれいでした。だから、そこをつなぎ合わせる大変な手術をしました。出血もひどくて、あなたは元々貧血ぎみだったんだろうと思いますが。今後は貧血治療も必要です」
そんなに深刻なことだとは思わなかった。どうりでこのがっちり固定された腕……
「それで…私の手はまた動くようになるんでしょうか」
泉の質問に、医者はひとつ息をついた。
「痺れが取れたら動くようにはなるでしょう。ただ…神経が多少傷ついていることは間違いないので、完全に元通りというわけには……」
真紀が息を飲み込んだのがわかった。泉はそれでも落ち着いていた。
「私…ピアノを弾くんですけど、それはもう無理なんでしょうか」
「無理とは言いませんが……職業としてというのは難しいかも知れません。リハビリも必要でしょうし」
もう元のようには弾けないということか……弾けない?ピアノが?
ここまで来たのに。やっとの思いでここまで来たのに。
「すみません。ちょっと一人にしてもらえませんか」
「泉…」
真紀が声を掛けたが、泉はふと微笑んで「お願い」と言っただけだった。
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