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 カデンツァ 第四章   


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泉は廉の先に歩いていたが振り返って答えた。

「ええ。電車で帰りますか?だったら駅までなら一緒に…」

廉が意図していることはわかっているはずだった。わざと言っているのだ。廉はちょっとむっとして立ち止まった。手を引っ張られる格好になって泉も足を止めた。

「君がそういうつもりなら、こっちは実力行使するまでだ」

廉はちょうど自分が立っている廊下の脇にあった出演者が楽器を入れておく小さな場所に泉を引きずりこんだ。廊下とはベルベットのカーテン一枚で仕切られているだけだ。

「ちょ、ちょっと廉さん?」

真っ暗な中、廉は泉を後ろから抱きとめて耳のすぐ後ろでささやいた。

「きれいだ…」

廉の片手がしっかり泉のウエストに回っている。泉はその手をはずそうとしたが、びくとも動かなかった。動かないどころかもう片方の手が泉のコートのボタンに伸びてきて、上からはずし始める。

「廉さん?」

泉は廊下にいる誰かに聴かれるのではないかとひやひやしながら小声で言った。廉は返事をせずにはずした泉のコートの襟を片手で広げて今度はブラウスのボタンにかかった。

「や。だめ。こんなところで…」

抵抗しようとする泉の手を全く気にする様子もなく、廉は簡単にボタンをはずした。と同時にするりと胸に手が入った。

「……どうしてもと言うなら場所を変えてもいいが…」

廉がくすくす笑っている。ああ、憎たらしい。彼はこの状況を楽しんでいる。暖かい手が泉の胸のふくらみを捕らえていた。

「一緒に帰る? 僕の部屋に」

「廉さん…」

廉は泉の耳に唇を這わせるようにしてささやいた。

「帰るか?僕と」

「今日はまだ木曜日でしょう?あさって行きますから」

廉が背中で小さくため息をついて首を振ったのがわかった。カーテンの向こうの遠いところから、若い男たちの声がした。誰か来る。

「……廉さん…おねがい…」

「一緒に来るか?」

足音がすぐ近くまで来ている。誰かがカーテンを開けたら…

「行きます。行きますから…」


廉は泉の身体をくるりと自分の方へ向けさせてキスした。キスしながら泉のコートのボタンをかけなおした。


「おっと、失礼!」

突然、カーテンを開けた男が、廉たちに驚いてカーテンを閉めなおした。

廉はにやりと笑って泉の手を強く握り、泉を引っ張って廊下に走り出た。そして声を立てて大笑いしながら泉と廊下を走って外に出た。


店の外に出ると二人は息を弾ませながら顔を見合わせた。泉は廉をにらんで言った。

「けじめがつかないことはしないって約束したじゃないですか」

軽井沢から帰った後、泉は廉のところへ行くために最低限やらなければいけないことはやろうと決めたのだ。

何を言われるかはわからないが、廉の家にも挨拶に行くつもりだったし、静岡の叔母の家にも行く必要があった。

反対されるかもしれないが、出来る限りのことはしようと覚悟を決めた。それなのに…


「君を待ってばかりだと、僕の方がけじめがつかないんだよ。男にはいろいろあるって言っただろ」


手をつないだまま廉は大通りにに向かって泉の肩越しにタクシーを捜している。

泉が「さむい」と言って横から頭を胸に押し付けた。廉は頭を抱くようにして額に口づけした。



車のヘッドライトではない、きらりと光る何かが泉の目に飛び込んできたのはその時だった。

廉は遠目で車を探していたのでそれが目に入らなかったのだ。泉と同じ目線の先にあったのは鋭くとがった大きな刃のナイフを持ったチンピラ風の男だった。

明らかに廉を狙っていたその刃先はあっという間に目の前にやってきた。

「廉さん!!」

泉はとっさに廉を突き飛ばしてよけさせようとしたが、ナイフは泉の左腕にかかり、廉はよけきれず刃先が胸のどこかに刺さった。

が、廉は自分を刺した男にけりを食らわせており、男は近くに止めてあった自転車の列に突っ込んだ。

「…誰か!誰か!!助けて!!!」

泉は今まで出したことのないような大声で助けを求めた。

廉がうなりながら路上に崩れ落ちていく。

「廉さん!」

通行人が泉の声を聞きつけて駆けより、すぐに救急車を呼んでくれた。

知らない誰かがタオルのようなものを差し出して止血するように言った。

廉の胸にはナイフが刺さったままだ。赤い色の液体が地面にぼとぼと落ちていく。

「廉さん!廉さん!ああ…どうしよう……お願い、返事して…」

「もうすぐ救急車も来るよ。あんたもその腕、なんとかしなきゃ」

誰かが泉に声をかけた。ふと気づくと、自分の左腕からもだらだら血が流れている。

「おい!あいつ…あいつだろ?」

倒れた自転車の間からようやく男が起き上がろうとしていたのを誰かが指差していった。

泉は「…あの男です…」と言ったが、その後、急に目の前が暗くなってわからなくなった。