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夜の庭 第一章 -1- |
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ロンドンよりはるか南。 広大な所領地を持つローウェル家はサウスハンプトンでも指折りの貴族だった。昔から何人も人格者として知られる人物を排出し、荘園は豊かで小作も良い暮らしをしてきた。チャールズ1世の時代から続くこの旧家も、世間と同様これまで何度か後継ぎの問題に悩まされてきたが、19世紀も半ばに差し掛かった頃、またしてもそれが再燃した。 当主のジョージ・ローウェルは娘を一人授かったが、妻のマーガレットは病弱だったためもう子供は望めないと医者に宣告された。幸いジョージにはヘンリーという弟がおり、そのヘンリーにはジョンという息子もいた。つまり家はつぶれることはなかったが、ヘンリーの妻はジョンが生まれるときに産褥で亡くなっており、それ以外の子供はもう望めなかった。ジョージが最も心配していたのは、ヘンリー自身の素行が悪いことで、ヘンリーと一緒に住んでいる甥の先行きが危ういことだった。 その甥のジョンが十二才になった時、ヘンリーが鉄道の投機に失敗した。そのせいでヘンリーはローウェル家が持つ所領地の一部でただあてがわれていただけの古い小さな屋敷を勝手に売り払ってしまった。怒ったジョージはこれを機に彼らをローウェルの屋敷に引き取り、一緒に生活をはじめた。ちょうどその頃にはジョージの姉であるエレンも嫁ぎ先で夫を亡くし家に戻ってきていたので、ローウェルの屋敷は一気に賑やかになった。 エリザベス・ローウェルはジョージ・ローウェルの一人娘だった。子供の頃から器量もよく賢かったため、早くからサウスハンプトンの狭い社交界に出てくるように望まれていたが、娘の社交界デビューは父親のジョージがなかなか首を縦に振らなかった。 エリザベスが十六になったばかりの春、その胸を躍らせる出来事がおこった。父親のジョージの古くからの知り合いであるピアソン侯爵とグロブナー侯爵の息子であるシルヴィ・グロブナーがローウェル・ホールにやってきたのだ。彼らはフランスでの仕事の帰り、ぜひにという父親に誘われてローウェル・ホールへ立ち寄った。シルヴィ・グロブナーは大学を出た後、ロード・ピアソンに切望されて本当は海軍に入るところだったのを外務省にはいったという変わり者だった。エリザベスは前途有望な美しい若者だったシルヴィに当然胸をときめかせた。 渋いブロンドの髪にブルーグレーの瞳。背はひときわ高く、大概はまわりの人間を見下ろさねばならなかった。何かを考えているときも、大きな声で笑っているときも、シルヴィには高い知性を感じさせる雰囲気が漂っていたし、何よりそのウィットに富んだ話にひきつけられないものはいなかった。しかしシルヴィのほうはエリザベスのことを全く気にとめていなかった。それもそのはず、シルヴィにはその時既にダイアナという婚約者がいたからである。 そんなことを全く知らずにいたエリザベスは、ローウェル・ホールに彼らが滞在している間の大変良い話相手となっていた。当時、いとこのジョンは大学に行ってホールにいなかったし、昼間、ローウェルの広大な庭をあちこち散策する時にはもっぱらエリザベスが彼らの案内役だった。エリザベスは子供の頃から大変な本好きで、特に詳しいのは大好きな植物のことだったが、新聞もよく読んでおり、彼らといっぱし外交の話ができるほどだった。ピアソン侯は頭の良いエリザベスをいたく気に入り、男ならば必ず自分の手元に呼び寄せるのだがと言って残念がったほどである。 滞在が一週間を過ぎたある日、シルヴィたちと町に買い物に出かけたエリザベスは、シルヴィが通りの宝石商のウインドウをじっと見つめているのに気づいた。彼は店に入り、店主いわくフランス製の美しいすかしの入ったアンティークリングの値段を聞いた。 一体誰に? もしかして私に? まだ考えも幼かったエリザベスはシルヴィに恋人がいるなど思いもせず、内心大きな期待をしていた。シルヴィはかなり値のはるそのリングを、今、金が手元にないので、とり置きしてほしいと店主に頼んだ。 その後、エリザベスは知るべくしてシルヴィの婚約者の存在を知った。他愛のない会話から、シルヴィにそういう人がいると言うことを本人の口から聞いてしまったのである。失望を表に出すことも出来ず、自分が一人で馬鹿な夢を見ていたことを思い知ったエリザベスは驚きの表情でなんとかその場をしのいだ。シルヴィはそんなことに気づきもせず、このサウスハンプトンの田舎の景色を出来れば婚約者にも見せてやりたいと言った。 それを聞いた父親のジョージは当然、婚約者のダイアナもサウスハンプトンに呼ぶように勧めた。エリザベスには胸の痛い出来事だったが、父親の決めたことをこれと言った理由もないのに反対するわけにもいかなかった。 ダイアナは思ったとおり天真爛漫な美しい女性だった。金色の豊かな巻き毛に青い瞳。自信に満ちた物腰。シルヴィとダイアナはもともと小さいときからの知り合いで、結婚することは自然の成り行きだとピアソン侯は言った。エリザベスの母が手入れしている庭を、二人で仲むつまじく散策する様子はエリザベスの胸を傷つけた。 エリザベスは時折窓越しに見かける美しい二人の様子を自室の窓から眺めつつ、現実のものではないように考えることにした。彼らはおとぎ話の王子と王女。ローウェルの屋敷の野性的な庭にはちょっと合わない気もするが。自分にもいつかあのような方が……? エリザベスは内心非常にがっかりはしていたものの、この時からシルヴィを自分の心の中の王子様にした。決して結ばれることのない自分だけの理想の王子。エリザベスは空想の世界でいつも彼と話をしていた。何年もこの空想の会話を続けるうち、空想の中のシルヴィは、サウスハンプトンの田舎から決して出ないだろうと思っていたエリザベスの心のよりどころとなっていった。 宝石商のショーウインドウに例のリングがまだ飾られているとエリザベスが知ったのは、彼らがローウェルの屋敷を去った後だった。ダイアナがそれを気に入らなかったので、シルヴィが買うのをやめたのだ。エリザベスは父にねだってそれを手に入れた。普段宝石などに興味を全く示さないエリザベスが初めて自分から欲しいと言ったものをジョージは快く買い与えた。厳しい父親ではあったが、エリザベスのことは本当に大切にしていた。その後、エリザベスがその美しいフランス製のアンティークリングを指からはずすことはなかった。 十八になってやっと、エリザベスは社交界へデビューを果たした。社交界へ出る女性たちの最も大きな目的は、もちろん結婚相手を見つけることである。しかし父親のジョージはエリザベスを手放さなそうとせず、何かしら難癖をつけてはやってくる縁談を断っていた。エリザベスには兄弟がいないので、遅かれ早かれローウェル家の領地や家屋敷はいとこのジョンに渡ってしまう。それをわかっていながら、ジョージはエリザベスの縁談にいつも反対した。 エリザベスの叔父、ヘンリー・ローウェルがロンドンの阿片窟で亡くなったのはエリザベスが二十歳の時だった。二十二歳の時には、エリザベスの母親のマーガレットが病気で亡くなった。ローウェルの家督はジョンが継ぎ、エリザベスは母が受け継いできたトーヴィ姓の女伯爵の称号だけを受け継ぐ。母が亡くなったことはエリザベスにとっても大きなショックではあったが、父親のジョージにとっては弟が亡くなったことよりもっと大きな痛手だった。葬儀を済ませたすぐ後からジョージは具合が悪くなり、病気がちとなった。ロンドンに行くことも少なくなくなり、サウスハンプトンの屋敷で寝たり起きたりの生活を続けた。 そして五年ほど療養を続けた後、ジョージはとうとう亡くなってしまった。所領地と屋敷はいとこのジョンに渡った。エリザベスは母親からコンテスの称号だけは受け継いでいたが、ローウェルの家督を継ぐことはできないので、父親はエリザベスに生前からかなりのお金をエリザベスの名義で残していた。だから屋敷を出て行かなければならなくなっても、本当に困るような心配はない。ジョンはその時既に結婚して子供もおり、出て行こうとしたエリザベスにローウェル・ホールにとどまるように強く言った。ジョンの妻のカミラはいい顔はしなかったが、身の振り方が決まるまでということでエリザベスはそこにとどまった。既に二十七になっていたエリザベスは結婚するのももはや難しい年になっており、ローウェル・ホールには長くはいられないと思いつつ、屋敷の近くで小さな家を持とうとしていた。しかし父の喪が明けるその直前に、エリザベスに願ってもない縁談がやってきたのだ。 相手はシルヴィ・グロブナー侯爵。十年前にエリザベスの心を奪っていったその人だった。そのころシルヴィはロンドンの社交界できっての伊達男として有名で、皇太子のお気に入りとなっていた。三年前に父親を亡くし、その爵位を継いで当主となっている。 シルヴィ・グロブナーと縁談が持ち上がったのは父親の喪が明けてサウスハンプトンの屋敷から移るために近くの家を探し始めた矢先のことだった。父親がロンドンにいるときにはほとんどいつも一緒に行動していたピアソン候が、そのことで叔母のエレンのところに手紙をよこした。ピアソンはサウスハンプトンにも何度も来ていたし、エリザベスの事も自分の娘と同じようにかわいがっていた。父親のジョージが亡くなって、エリザベスの行く末を非常に心配していたピアソンは、ロンドンでも誰も知らないもののいない名門の貴族を是非にと勧めてきた。それが今はグロブナー侯爵となったシルヴィだった。 エリザベスはこの話が来たときに本当に驚いた。ロード・シルヴィの妻、ダイアナが二年前に病死していたことを叔母のエレンから聞かされたエリザベスは、彼を気の毒におもった。自分がずっと恋焦がれていた人は、愛していた人を失っていた。自分と同じように。サウスハンプトンにもロンドンの情報は入ってくるし、エリザベスは父が病気になる以前は新聞の全ての記事てに必ず目を通していたが、父が倒れてからはそれどころではなくなり、その事を知らずにいた。彼がどんなに妻の死に苦しんだだろうかと思うと、エリザベスは本当にこの話を進めてもらっていいのか迷った。しかしそのエリザベスの迷いはシルヴィの訪問で打ち破られてしまった。 ロード・シルヴィは自分の従者だけ連れて一人でやってきた。屋敷の庭で父親の墓に持っていく薔薇を摘み取っていた時、彼は突然そこに現れたのだった。 |
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