![]() |
夜の庭 第一章 -2- |
|
その日、外はまだ寒く、吐く息が白く見えた。辻馬車ではない、立派なしつらえの馬車の音がするのとともに、薔薇の垣根の間から薄い灰色のマントがばたばたと翻って黒いブーツがこちらへやってくるのが見えた。執事のビッグスがなにやら慌てて「お嬢様! お嬢様!」と叫んでいる。エリザベスが垣根から顔を出すと、帽子を手に背の高い人物がこちらへやってくる。エリザベスは太陽が自分の方に向いていたのでその人の顔は良く見えなかった。けれど、目を細めてよく見ると、確かにそれは自分がずっと心に思っていた彼であった。昔の記憶そのままに、すらりと背が高く、年を重ねてより男らしくなっている。 エリザベスはそれが誰かはっきりしないながらも腕に一杯の花を抱えながら小さくかがんでお辞儀をした。 「エリザベス」 まさに彼は想像していたとおりのぴんと張った声で自分の名前を呼んだ。エリザベスは声が出せなかった。 「エリザベス。私を覚えているか?」 ロード・シルヴィはエリザベスの前に立ち止まって見下ろすようにして言った。エリザベスは薔薇を抱えたまま夢を見るように呆然としていた。ああ。確かに、私が待ち焦がれていた人…… 「エリザベス? ……っつ!」 シルヴィはエリザベスが花束で動けないのを見て、手袋を取り、それを受け取ろうとしたのだが、手を伸ばした途端、まだとげを抜いていない薔薇の茎に触れ、慌てて手を引っ込めた。 「ああ、大丈夫ですか? ごめんなさい。少しぼんやりしてしまいました。こんな風においでになると思わなかったから」 「ではどんな風に現われるのをお望みだったのかな?」 シルヴィはは自分の指の傷を見ながらいたずらっぽく笑ってエリザベスを見た。エリザベスは自分の心臓が大きくどきんとなったのが卿に聞かれたのではないかと思った。 「どうぞこちらに。ここの仕事は終わりましたから」 エリザベスは自分が慌てているのを気取られないようにロード・シルヴィの先に立って屋敷のほうへ戻った。 エリザベスはロード・シルヴィを先に客間へ案内するようにビッグスに言い、抱えていた薔薇の束はメイドに渡した。花の処理の仕方を細かく指示している間、ロード・シルヴィは廊下でエリザベスをじっと見詰めていた。エリザベスは着替えてくるので、後ほど応接間でと言ってその場を逃げ出した。こんなところを見られるなんて! エリザベスは自分の格好にがっかりしながら階段を駆け上がった。 部屋に戻るとすぐ侍女のベネが服を脱がせ始めた。鏡を見ると本当にひどい。顔には雑草を抜いていた時についたと思われる草の緑がうっすら線を引いて残っていたし、髪の毛はボンネットを取ったすぐ後であっちこっちに跳ね上がってとんでもないことになっている。自分がつけていたエプロンも手袋も泥だらけだ。エリザベスはベネとティリーにされるがままになりながら泣きたいような気分だった。 「さぁ、お嬢様! しっかりしてください。ふらふらしないでちゃんと立って」 ベネが服を脱がせながらエリザベスを叱った。 「ああ、みっともない」 「大丈夫。絶対挽回してみせます。お嬢様はどこに出したって一番おきれいなんですから」 エリザベスがつぶやいたのにベネが自信満々で言った。ベネはエリザベスより二つ年上なだけだったが、いつもエリザベスを元気付けてくれる。母がなくなったときも、父が亡くなったときもエリザベスを勇気付け、ジョンに全てが渡るまで家のことが切り盛りできたのはベネのおかげだった。 エリザベスはそれから二十分後にはまるで別人のように変身していた。濡れたタオルで身体をすっかりきれいにしてもらったら本当にさっぱりしたし、その後、髪はティリーがいろんな方向にまいて小花をあしらった飾りでとめられた。ベネの勧めでエリザベスが自分で配合した薔薇のローションを首筋にほんの少しつけると、その香りで気分も少しは高揚するようだった。 エリザベスはそのほんのり香るローションはわれながら良い出来だと思っている。庭の薔薇を大量に集めて作っても、ほんのちょっとしかできない。だから香水にはならないのだ。けれどそれももう、今年が最後。自分が作った庭は夏にはジョンに託される。できれば自分が大事にしてきた庭をうまく保って欲しかったが、そんな期待はジョンにもジョンの妻にも、およそ無理な話だった。 彼らは庭などに自分の手間をかけるようなことはしないだろう。もし、この近くの家を買って、そこに住むことになったら、時々は庭を見せてくれるだろうか。いや、そんなことはしない方がいい。きっとがっかりすることになる…… 「――嬢様……お嬢様?」 エリザベスは右手にはまっている指輪を無意識に触っていたが、べネが呼びかけているのに気づいてはっとした。 「どうぞ階下に。完璧です」 ベネが自慢気に言った。いつも首にかけている母の形見の小さなロザリオに祈ってキスし、エリザベスは部屋を出た。 応接間へ降りていくと、ロード・シルヴィが椅子から立ち上がった。立ち上がったが、ロード・シルヴィは目を丸くして声を出さなかった。エリザベスは不思議に思いながら、足を引いて挨拶をした。 「先ほどは失礼しました。ロード・シルヴィ」 グロブナーはエリザベスに近寄って手を取った。その手の薬指には昔、シルヴィが買おうとして買わなかったリングがはめられていたが、ロード・シルヴィはそれには何の感心も示さなかった。 「こんなに美しい女性になるとは」 シルヴィが手の甲にキスする。彼は指輪には気づかなかったようだ。当たり前だわ。もう十年も前のことだもの。 「私が一人で来るとは思っていなかったでしょう。ピアソンは昨日、急にウィーンへ行くことになってしまって。私だけ先に休暇をもらいました」 ちょっとおかしそうにロード・シルヴィは言った。 「とても残念ですわ。ここは何もない田舎ですから、いろいろ不便もあるでしょうけれど、どうぞゆっくり静養なさってください」 いつまでも手を離さないロード・シルヴィにちょっと戸惑いを感じながらエリザベスは言った。 この人の目は……エリザベスは心臓を捕まれたような気がした。吸い込まれそうなブルーグレー。ああ、そういえば、昔も同じ事を思った。 エリザベスは「また恋に落ちた」と思った。錯覚ではないかと思いはしたが、シルヴィがエリザベスの瞳を見つめる時の大きな虹彩の輝きが、自分に興味があるのだと言っているようだった。自分が舞い上がっているのが良くわかる。まるで子供みたいだわ。彼の前でどのくらい普通に装っていられるだろうか。エリザベスは自信がなかった。 そのすぐ後に、当主となったジョン、それに妻のカミラ、叔母のエレンが挨拶に出てきた。ジョンとエレンは十年前にシルヴィがここに滞在していたことを知っていたので、亡くなったダイアナのことについてお悔やみを言い、シルヴィもジョージがいなくて残念だと返した。 それからサウスハンプトンでのシルヴィの滞在が始まった。エリザベスは彼がこんな田舎で退屈するのではないかと心配していたが、そんな心配をよそに、シルヴィはローウェル・ホールでのんびりした時間の流れに身を任せようとしていた。一方、都会からやってきた、当世きっての伊達男と名高いグロブナー卿がローウェル・ホールに滞在するということで、屋敷の使用人たちは皆、浮き足立っている。彼らを通してサウスハンプトンの街中にその話は広まり、話を聞きつけた名のある家の者たちがこぞって、何やら用事にかこつけてはジョンやカミラに会いに来ようとメッセージをよこした。 確かにシルヴィは以前にそこに滞在していた時よりさらに女性の心を惑わす男性になっている。父が亡くなって間もないのに、こんなに急に男性に心を惹かれるなんて……エリザベスは自分を恥じたが、シルヴィの魅力には到底勝てなかった。なるべく普段どおりにしようとは思うものの、シルヴィはいたるところでエリザベスをどぎまぎさせる。普通でいられるのは庭にいるときだけだ。 シルヴィはローウェル・ホールで何かすることがあるわけではなかった。こちらから招待したとは言え、表向きには静養と言うことだったから、それはあたりまえといえなくはない。狩の会をやったらとカミラが提案したが、シルヴィはピアソンも連れずに一人できてしまった手前、人前に出るあまり大きな催し物は遠慮させてもらいたいと言った。 シルヴィはただ、昔そうしたように、エリザベスが手入れしている広大な庭を日々一緒に歩いた。以前、何度もシルヴィとピアソン候を案内した場所ではあったが、母が亡くなった後、自分が手入れをするようになってから、ずいぶん植え込みも増やしたし、変わっているところもある。植物の話など退屈かとは思いながらも、エリザベスにはそれしかシルヴィと話す術がなかった。ピアソンからは特別なもてなしなどいらないと手紙をもらっている。シルヴィも自分に構わず、エリザベスが普段過ごしているそのままにしてほしいといった。シルヴィがどんなことに興味があるのかも知らず、何の話をしたら良いのかわからないエリザベスは結局、仕方がないので植物の知識を披露するしかなかった。 サウスハンプトンは暖かいので冬にもほとんど雪は降らない。春から夏にかけては次から次へと花が咲く。まだ春の初めだが、終わりかけの花を摘むだけでも毎日大変な作業である。特に庭の奥にあるりんご園は冬から春にかけて剪定をきちんとしなければならないし、4月の終わりにはりんごの花が咲き、受粉と言う最も大事な作業が待っている。エリザベスはもう次の夏にはここにいられないことがわかっていながら、エリザベスがいなくなった後に手入れの指示をしなければならないいとこの妻、カミラにどうしてもと請われたこともあり、手入れをすることをやめられないでいた。カミラはもともとそんなことを自分でする人間でもないし、エリザベスのように使用人にうまく指示してその作業をすることもできないだろう。もしかしたら、ジョンがこのまま庭を保ってくれるかも知れないし、たとえそうでなくても、エリザベスは自分からその仕事を放棄することはどうしてもできなかった。 シルヴィはエリザベスがところどころで足を止めて、古い花を取ったり、草を抜いたりするのを見ながら微笑んでいたが、その笑みにはなぜか自分が感じているのと同じような寂しさが漂っていた。その真意はわからなかったが、エリザベスはシルヴィが自分の本当の気持ちを理解してくれているような気がしていた。 けれど、彼はほんの少しの間だけ、自分の所に立ち寄ってくれた美しい旅人だ。そう思うようにしなければ。この先何年もまた、良い思い出にするために。 |
|
![]() |
![]() |
目次へ |