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夜の庭   第五章   


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 エリザベスが動けるようになるまで一週間ほど、シルヴィとエリザベスはカロル城に滞在した。ピアソンとローン候が真っ先にロンドンへ戻り、次にロンドンに戻ることにしたメアリーとフィリップ、それにヘンリーは一緒に部屋にやって来て、二人に別れを告げた。フィリップは頭は真っ白になっていたが、狂人にはなっていなかった。コミューンの人間たちに脅されるのに、時々狂人のフリをしていただけだった。狂っているのか正気なのかわからないフリをしながら、フィリップは何とか六年間も生き抜いてきた。

彼らと一緒に戻ることにしたヘンリーは、メアリーと二人でシルヴィに壊れたバタフライクラブを立て直す資金の出資をせまった。エリザベスの前では嫌だと言えないのがわかっているからだ。これまで、自分の認めたもの以外に出資するなどありえないシルヴィだったが、エリザベスを前にして出資しないとは言えず、渋々ながらもこれに応じることになった。

「ヘンリーもなかなかしたたかになった」
三人を見送りながらシルヴィが言うと、エリザベスが笑った。
「いつもあなたのそばにいらっしゃるからですわ」


 ギボンの妻のリリアンとエリザベスはシルヴィが予想したとおり、すぐに仲良くなった。身一つでさらわれたエリザベスには、身の回りのものが何もなかったが、リリアンが全てを用意してくれていた。二人とも庭の話になると夢中で、時間が飛ぶように過ぎていく。一週間が過ぎ、エリザベスも普通に動けるようになったところで、シルヴィが明日ロンドンへ戻ることにしたと夕食の席でギボンに伝えると、リリアンはその場で泣き出してしまった。エリザベスが手紙を書くので、どうか泣かないで欲しいと慰め、ギボンが客人を困らせてはいけないと言ってようやくリリアンは泣き止んだ。そして、エリザベスがすぐにやってくる短いが楽しい秋の話をはじめると、なんとか気持ちを持ち直した。これまで世話になったことを感謝して、ギボンとともにイギリスへ招待するとシルヴィが言うと、リリアンは感激してまた泣き出しそうになった。

 翌日、ラトゥール・ドゥ・カロルに別れを告げ、シルヴィたちはパリへやってきた。はじめにシルヴィがフランスへ旅立ってからおおよそひと月半が経っていた。二人はパリにさらに二週間滞在し、昼間は買い物、夜は音楽会やバレエといった遊びで贅沢な日々を過ごした。エリザベスは屋敷をずっと留守にしているのが心配で、事あるごとにシルヴィに早くイギリスへ戻ることを提案したが、シルヴィはそれを全く聞き入れなかった。そもそもこういう散財に慣れていないエリザベスは、湯水のように金をつかうシルヴィを恐ろしく思ったが、シルヴィにとっては、この程度の散財は贅沢の内ではなかった。

 ようやくシルヴィが重い腰を上げ、パリからロンドンへ戻ると言ったとき、エリザベスは内心ほっとしていた。あの喧騒の中でも、自分の国、自分の家、そして自分の言葉の通じるあの人たちの元へ帰るのだ。うれしくないわけがない。
「今の君には、どんな贅沢より家に帰ることのほうが大事なのだな」
シルヴィは嫌味たっぷりにエリザベスに言ったが、エリザベスは「だって……」と言ってシルヴィの胸に自分の頭を預けて抱きついた。
この感情をどうやっても表現できない。とにかくうれしいだけ。優しいあなたがいて、家に帰る。ただそれだけで、うれしくて仕方がないのだ。
 エリザベスは使用人の一人一人に何かしらお土産を買っていた。この贅沢な新婚旅行の幸せを、ささやかではあるが使用人にも分け与えてやりたかった。皆が喜んでくれるといいけれど……エリザベスはその小さな箱の一つ一つをそれぞれが開ける瞬間を、帰りの列車の中で想像して楽しんでいた。



ブーローニュからフォークストンへ渡り、そこから半日かけて、二人はロンドンへ戻ってきた。チャリングクロスへ着いたのはもう夜だったが、シルヴィが電報を打っていたので、駅にはゴードンが迎えに来ていた。
「荷物はもう届いているか?」
シルヴィがゴードンに訊ねると、ゴードンは苦笑いして頷いた。
「ええ。大変な量でしたよ。でも広くなったので、置き場所には困りませんでしたが」
広くなった? ああ、屋敷を大掃除するのだと言っていたっけ。エリザベスはシルヴィがした買い物がそれでもちゃんと家に入ったことに驚いた。だから大掃除……もともとあんなに大量の買い物をする予定だったの? 


 馬車は幌が開けられていた。風が気持ちいい。しかし、それに乗ってすぐ、エリザベスはそれがメイフェアに向かっていないことに気づいた。屋敷はすぐそこなのに。
「シルヴィ? どこへ行くの? 屋敷に戻るのでは……」

「少しドライブする。夜に馬車を出すのもいいものだ」
シルヴィはそれ以上何も言わなかった。ただ静かに微笑を浮かべているだけだ。エリザベスは以前、夜に連れ去られた時のことを思い出しはしたが、その時とは全く違う気持ちでいた。なぜなら、隣にはシルヴィがいて、彼は自分の手をずっと握っているのだから。

 馬車がどこに向かっているか、エリザベスには少しずつわかり始めた。これはリッチモンドへ行く道だ。キューの方へ向かっている。ホレイショーと何度か行ったキューガーデン。風景がだんだん変わっていく。風も、空気も、香りも。ロンドンの中心を少し離れただけでこんなに変わるのだ。

 キューへ入る入り口の手前で馬車は右に折れた。てっきりキューへ行くものと思っていたエリザベスはシルヴィを見たが、彼はただ微笑をたたえて自分を見ているだけだ。ああ、どこへ行くのだろう? キューには別の入り口があるの? エリザベスがあたりを見回しているうちに、馬車はそこを通り過ぎておそらく別の敷地に入った。少し行ったところでゴードンが御者席から降り、そこにあった門扉を開けた。広大な土地。左手が少し高くなっていて、奥のほうにローウェルの屋敷より大きな邸宅が見えた。馬車がその屋敷の目の前に静かに入っていく。メイフェアの屋敷にいた使用人たちが皆、外に出ており、そろって二人を出迎えた。

「おかえりなさいませ」
「ああ、今帰った。変わりはなかったか」
「変わりはございません」

繰り返される同じ台詞。けれど……

「さあ、奥様」
エリザベスはシルヴィに誘われるまま、屋敷の中へ入った。高い吹き抜けの天井にかかったシャンデリア。ぴかぴかに磨きこまれた玄関ホールの床。正面奥の階段は左右に分かれて優美に弧を描いている。
「今日からここが私たちの家だ」
エリザベスは呆然としてあたりを見回した。
さっきは暗くて良く見えなかったが、左右に広がる屋敷の両翼は非常に長く、メイフェアの比ではない。一体いくつ部屋があるのだろう?
「屋敷の探検は明日からすればいい。それより、君にはこれから大きな仕事が待っている」
「大きな仕事?」

 シルヴィとともにエリザベスは玄関ホールを抜け、長い廊下を通って、屋敷の裏手へ出た。緩やかに下がった目の前には古く大きな庭園があった。入り口にはつる薔薇の長いアーチがあり、奥に深くその道が続いている。夜だったがその日は月明かりが煌々として、この屋敷からは少し下がったその庭園と、一番奥にある森までがはっきり見えた。ここはおそらく、昔はきちんと手入れされた庭園だった。今は少し荒れているようだけれど。夏にこんなに庭が茂るのは手が入っていない証拠だ。

「ここは……」
エリザベスが振り返って訊ねると、シルヴィが言った。
「この屋敷を君に捧げる。今日から君はここの女主人だ」
「シルヴィ……」
エリザベスの頬がばら色に染まる。
「私が、どこか大きな庭がある家を探しているとキューのフッカー氏に手紙を出したら、彼が教えてくれたのだ。ちょうどキューの隣が売りに出たからと。ここはバロネス・ヘップワースが長年住んでいたところだが、彼女が亡くなった後、跡継ぎがなくてこの土地を国に没収された。そこをキューの一部として王室が買い取るかどうか検討していたのだが、フッカー氏は、君がここに来るならぜひにと言って、私にその権利を譲ってくれたのだ」

「ああ、シルヴィ!」
エリザベスはそれ以上の言葉もなく、ただシルヴィの胸に飛び込んだ。
「どうやったら君に喜んでもらえるのか、散々考えた。ルーバーブのシロップ漬けに勝ちたかったから」
シルヴィは珍しく、少しはにかんで言った。思わず涙が落ちた。彼が自分のためにしてくれた、最大の贈り物。シルヴィはエリザベスの頬を指でぬぐってキスをした。


「いざ」


夜の庭は静かに、柔らかな息吹で二人を迎えた。




 - 了 -

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