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雪待月    1


 その日、泉は西麻布にあるレコーディングスタジオに急いでいた。四講目が終わった後、すぐ学校を出てきたが、約束の五時半にぎりぎりだ。今週の初め、自分のマネージメントをしてくれているワン・セブンスの安藤えみが、USのTVドラマ向けの曲があるかどうか打診してきた。もともと使おうとしていた有名なUSのコンポーザーが不祥事を起こしてしまったために、テーマ曲に急に穴が開いてしまったということで、安藤はここぞとばかりに泉を売り込もうとしていた。クライアントが特に映画業界で名の通ったエヴァレット社だったからからである。
 自分の恋人やその友人のおかげでデビューしてしまった泉は、大学を卒業するまでは依頼でくる仕事は請けず、自分のペースで書いたものを提供するというやり方を取っていた。だから、その時に合ったものがあれば出すし、なければ仕事を請けないことになる。
安藤から打診があったその時、泉の手元にはちょうど先月あたりから書き始めて七割出来のスコアがあった。この仕事を学校に行く傍らにはじめてからもう半年が経つが、段々やり方がわかってきて、完成度の高いものが早く上がるようになってきている。それはもちろん、音楽製作会社の助けもあり、学校での高田教授のアドバイスもあり、そして何より出来た曲を一番初めに見せる廉の的確な助言があってのことだ。

 ドラマは二次大戦中のフィンランドからやってきた空軍技術者のものということだった。その半出来の曲はスケール感の大きなメロディラインになっているので、テーマとしては合っているように泉は思った。結婚式を控えている手前、時間的に自分でアレンジするのは無理だが、曲の提供だけは出来るかもしれない。それで泉は、メインテーマだけならと安藤に返事をした。ドラマの中で使う効果用のBGMは提供した曲を加工してもらう。ワン・セブンスはエヴァレット社と初めて仕事をする。安藤もここで絶対に食い込んでおきたいようなことを言っていた。自分のような掛け持ちで仕事をしている人間がやっていい仕事かどうかかなり怪しかったが、それだけでもいいからと安藤は言った。とにかくこの仕事は泉の曲で行きたいと安藤は確信を持っている。そのため、申し訳ないが今日、どうしても打ち合わせをさせて欲しいと頼んできた。USの製作会社からコーディネータが来ているからだった。

 泉はその夜、廉と食事の約束をしていた。廉は最近、仕事が少し落ち着いてきたせいか、時間が持てるようになっている。これまでのように、夜中に部屋に戻ることも少ない。泉は仕方なく廉に今夜の食事をあきらめてもらうよう電話した。この時、廉はがっかりはしていたが、それでも
「仕方ないね。じゃあ、週末だな」と自分に言い聞かせるように言った。
「もうすぐお誕生日ですよね。その時にちゃんと埋め合わせします。ご馳走作りますから」と泉が言うと、廉は「期待してる」と機嫌を直した。


 西麻布のスタジオには安藤とそのコーディネータが既に来ていて、泉のことを待っていた。安藤に紹介されると、彼は立ち上がって、その背の高さを見せ付けた。グレーのジャケットに薄い青の縦じまのシャツ。それが、青い目の色、黄色い頭とよく合っている。自分をどう見せるかよく知っている人だ。と泉は思った。

 はじめましてと挨拶し、泉はプロダクションカードをもらって、差し出された手を取った。イアン・ハーディング。スコットランド系? でも発音はアメリカンだ。泉が愛想笑いすると、ハーディングもにっこり笑った。
「なんて、可愛らしいお嬢さんなんだろう。まだ学生だと聞いていますが」
泉はにっこり笑った。
「ええ、まだ学生です。ちょっと年はとっているんですけど」
「でも、リョーコ・イチノミヤがどうしてもこの人と仕事がしたいって言わせた人ですからね。それで吉野さん、スコアは持ってきてもらえました?」
安藤は人前で泉のことを先生と呼ぶ。泉がそれはやめてくれと言っても、年で軽く見られるのは良くないからと言ってそう呼ぶのだ。ハーディングの前では英語だから、泉はただのミス・ヨシノと呼ばれる。その方がまだ安心できる。
「ええ。スコアはまだ全部出来てないんですけど。ベースはこれです」
泉はピアノ譜のコピーを二通、安藤とハーディングに差し出した。二人がそれをさらっと眺める。
「音はありますか?」
安藤が訊いたので、泉は鞄の中から小さなプレーヤーをとり出した。
「ピアノ譜のものですけど」
二股に分かれたアダプタをプレーヤーに付けると、安藤もハーディングも自分のヘッドフォンを取り出してジャックに差し込んだ。

 何度やっても、この時間は一番緊張する。他人に自分の曲を聴いてもらうのを目の前にしていると、本当に心臓がつぶれそうな気がする。泉は落ち着かない気分で、目の前に出されたコーヒーを一口飲んだ。

「うーん。いいじゃないですか、これ。早くサンプルとって下さいよ」
聴き終わった安藤が開口一番に日本語で言った。ヘッドフォンを一旦はずしながら、ハーディングは安藤が何を言ったのかわからず、とまどった様子をみせたが、その説明を求めるでもなく、ハーディングは指をくるくる回してもう一度リプレイして欲しいと泉に頼んだ。すぐにヘッドフォンを付け直した二人はもう一度曲に聴き入った。

「うん。いいですね。ねぇ、ミスター・ハーディング?」
安藤が本当に良いと思って言っているかはわからない。もちろん彼に売り込んでいるのだ。しかし、ハーディングも納得したようにうなずいた。
「ええ、これならいけそうです。いい曲です。いつ、オケのサンプルがあがりますか? もう余り時間がないので、うちはできる限り早く欲しいんです。アレンジャーに早く渡して、サブテーマも書いてもらわないといけないし。今回はメインテーマだけしかお願いできないんでしょう? レコーディングの手配は大体済んでいるので、オケのメンバーの練習時間も含めて2週間のうちには何とかしてもらいたい。スコアはできるかぎり早く」

話がとんとん拍子に進んで、泉はちょっと驚いた。
「ええっと……そうですね……今週中にはスコアをあげて、それからですから……仮メロのサンプリングは来週の中ごろでしょうか。あの、でも、これでいいんですか? この曲で本当に?」
ハーディングが一体どの程度の決定権を持つのか、泉にはわからない。安藤もそれは訊いておきたいようで、隣で瞬きもせず耳を澄ませている。
「もちろん。これなら、どのスポンサーも嫌とは言わないでしょう。説得するまでもありません」

泉は胸をなでおろした。良かった。どうやら、認めてもらえたようだ。安藤の顔も潰さずにすむ。
「じゃあ、これで決まりですね。スコアは月曜日ですかね? 吉野さん、もし、ここのスタジオで作業する方が良ければ、どこか部屋を探しときますよ」
「ああ、じゃ、お願いします。最終ミキシングのときだけでいいです。来週水曜から後ろの18時以降で」
こうしてどんどん予定が埋まっていく。来週、大学であまり課題が出ないことを祈ろう。
「それと、ニューヨークに来てもらう話も大丈夫ですか?」
泉はハーディングのこの言葉に驚いた。そんな話は聞いていないが。
「ああ、吉野先生。エヴァレット社は音録りまでは付き合って欲しいと言っているんですよ。なんか、別のコンポーザーと出来上がった曲でもめたことがあるらしくって」
安藤が日本語で言った。
「ええと……それはちょっと……困りましたね……」
泉は黙ってしまった。十二月には自分の結婚式がある。そうでなくても忙しいのに、ニューヨークになど行っている暇はない。
「レコーディングは三日だけです。ちょっと大学を休んでもらうわけにはいかないですか? 十一月の二週目に来てもらえれば」
廉はなんと言うだろうか。確かに無理をすれば入れられなくは無いが。
「一週間は無理ですけど、本当に三日間だけなら……」
中三日として、前後の移動に一日ずつ。強行軍になることは間違いない。おまけに東海岸だし、ジェットラグも酷いに決まってる。本当にできるだろうか。泉は迷いながらそう口にした。
「それでもいいです。レコーディングの日付がきちんと決まったら、お知らせします」
「エアーはこちらで手配しますから。契約書は出来たら送ってくださいね」
安藤が言うと、ハーディングがまたにっこり笑った。
「その前にスコアを。ミス・ヨシノ」


 安藤はその後、二人を夕食に招待した。スタジオのすぐ近くに新しくオープンしたホテルに入っている有名なイタリアンの店だ。そこは今日、新しく出来たから行って見ようと廉が泉と来ようとしていたレストランだった。「今日、予約を取るために大変なコネを使ったんです」と言って安藤はウインクして見せた。
「でも、一番来たかったのは私なんですけどね。えへへ」
安藤が幸せそうに笑うのをほほえましく見ながら、泉は、廉もきっとどこかのコネを使って、予約していたのだろうと思った。そこへ行くと言い出したのは先週のことだったし、店の混み具合からして、そんなに簡単に予約は取れなさそうだ。廉に申し訳なく思いながら、泉は安藤の後について行った。

 用意されたテーブル席はゆったりとしていた。テーブルの上に小さな花が飾られ、脇に低いキャンドルが二つ。店の中は全体的にほの暗いのだが、足元の間接照明がデートにはもってこいの雰囲気をかもし出していた。周りを見回すと、接待らしき客も何人かはいるが、ほとんどが男女のカップルだ。食事はおまかせのコースが頼まれており、途中で少しずつサーブされるフルーツワインが非常においしい。ハーディングは変り種のワインが好きらしく、店のイタリア人のソムリエと原料の話で盛り上がった。
「これはブラックチェリー。スグリの味もする。すごくスパイシーだね。スパイシーなの、大好きなんだよ。これは……ううん、なんだろう」
ハーディングがその舌でワインを転がしながらソムリエを見上げる。
「……フフ。わかりませんか?」
ソムリエがうれしそうだ。さっきからずっとハーディングにあてられているからだ。
「プラム?」
泉が言うと、ソムリエが目を丸くして頷いた。
「正解!」

「ミス・ヨシノ! どうしてわかったの?」
ハーディングは悔しそうだった。
「それ以外はわからなかったんです」
泉は正直に答えた。
「では、このワインはこちらのお嬢さんに。わたしからプレゼントします」
恨めしそうなハーディングをよそに、ソムリエは泉のグラスにそれを注いだ。

「ミスター・ハーディング。そんなに見つめられると、ワインが沸騰してしまうわ」
泉が言うと、ハーディングは恨めしそうに新しいグラスに別のを注いだ。
「もう少し待ってくれれば、僕にもわかったかもしれないのに……今度あなたがニューヨークへ来たら、僕の勝てるところへ招待します」
泉は安藤と顔を見合わせて笑った。その時、安藤の携帯電話がぶんぶんうなり始めた。
「やだ、社長からだわ。ちょっと失礼します」
安藤はそう言って、席を立った。

「大学はあと何年?」
ハーディングが訊ねた。
「一年と半分です。うまくいけば」
今年を乗り切れば、何とかなる。この忙しい今年を何とか乗り切れば。作曲に途中から変わった泉にはやはりハンデが大きい。一、二年で取っていなければいけない単位を三年、四年で取らなければならなかった。廉にはそんなに無理をすることはないと言われていても、泉は出来れば今年中にそれを取ってしまいたかった。大体、先のことなど何も想像できない。結婚生活も、卒業した後も。
「イズミ? って呼んでもいい?」
不意にハーディングが訊ねた。
「ええ。ミスター・ハーディング」
「僕がイズミなのに、君はミスター・ハーディングなの?」
泉はおかしくなって笑った。「そうですね。では、ええと……イアン?」
「イエス?」
泉が名前を呼び、ハーディングが答える。
「今回の録音のスタジオはどこにあるんですか?」
ハーディングの口がきっと締まった。
「ブロードウェイの近くです。オケはニューヨーク・モダンミュージックの団員がほとんど。コンダクターもそこからきます。たぶんジョナサン・オルドリッチになると思う」
ジョナサン・オルドリッチ……! 泉は目を丸くした。そしてその後、訊かなければ良かったと思った。
「本当に?」
「ええ。ここ二年くらい、NMMとやる時はいつもそうですから」
イアンは別にそれが何か問題あるのかという風だったが、泉はこれは困ったことになったと思った。

そんな有名な人に、この曲を振ってもらうのか……あのスコアで……おまけに……

「吉野先生、すみません」
泉の頭の中が不安で回り始めたその時、安藤が戻ってきた。
「あのぅ。ちょっとトラブルが発生してるらしくて、応援に行かないと……ほんっと申し訳ないんですけど、中座させてもらっていいですか? 近くのホテルなんですけど、例のフィレンツェの人たちのホテルが取れてなくって……も、大揉め」
安藤は頭に手をやって、頭を下げた。例のフィレンツェの人たちというのは、フィレンツェから来ている四重奏団のメンバのことだ。
「あら、そうなんですか。それは大変。部屋は何とかなりそうなんですか?」
「わかりません。たぶんまだこれから探すことになると思います。今あの人たち、うちの新人の子とホテルのロビーにいるらしいんですけど、あんまり待たせるわけにも行かないので」
「どうぞ、かまいませんよ。早く行ってあげないと」
「すみません。本当に、すみません。私から誘っておきながら……」
安藤はイアンにも同じことを説明して鞄を取って頭を抱えるようにしながら店を去っていった。フロア係がすぐ皿を片付けに来た。安藤はたぶん支払いを済ませていったのだ。

「ミス・アンドウって、面白い人だね。でも、すごく有能」
安藤の後姿を見ながらイアンが言った。
「そうですね。有能で、やり手。さっきの売り込み、何気なくすごかったでしょ?」
「ああそうだね。でもね、イズミ。僕は本当にさっきの曲はイケルと思った。だから良いと言ったんだよ。それに、売り込みはもっと前からされてるしね」
不信そうな泉にイアンが意味深に笑う。
「だって、USの僕らの同業者で君のことを知らない人間はいないよ。多分。ワン・セブンスは君に見込みがあるからミス・アンドウをつけたんだろうね。彼女ったら、君の情報はものすごく小出しにするんだ。二分のカットをいくつか配ってね。日本で出たやつだと思うけど。僕なんて日本語も読めないのに、ネットで日本のサイトを探しまくったよ」
泉はまさかそんなことが水面下で行われてるとは知らず、イアンからそれを聞かされて赤くなった。
「でも、結局僕らが契約にこぎつけそうだけどね」
してやったりという顔のイアンだったが、泉にはそれがまるで他人事のように感じた。自分はそんなに評価されるほどまだ何もやってはいない。
「買いかぶりすぎです」
泉はそうつぶやくように言ったが、イアンは首を振った。
「アメリカ人相手にするならもっと自分を売り込こまなきゃ」

泉は何も言わずに、イアンにちょっと微笑んだだけだった。その答えは自分でもよくわからない。自信がないというよりは、自分を売り込もうとは思っていないと言ったほうが正しいように思う。

「でも、そのミステリアスな笑顔にはやられそうだね」
「お世辞が過ぎます」

そう言ってうつむいた泉の肩を、突然、誰かが掴んだ。思わず声を上げそうになったが、振り返って見上げると、そこに廉が立っている。
「廉さん!」

廉は決して笑っていなかった。表むき友好的な態度を取ろうとしてはいたが。
「どこの人?」
かがんで泉に小さい声で訊ねる。
「ああ、USのエヴァレット社のコーディネータさんなの。今度、TVドラマのお仕事をいただくことになったのよ」
「へえ……それで、二人で食事ってわけ?」
廉はつぶやくように言って泉に返事をさせる時間も与えず、イアンに自己紹介を始めた。
「今晩は。レグノ・デリソーラの森嶋です」
「モリシマ? あなたがモリシマ・インストゥルメンツの?」
イアンは立ち上がって手を差し出した。
「ええ」
廉がそれを軽く握る。
「イアン・ハーディング。エヴァレット社のコーディネータです」
イアンはジャケットの内ポケットからカードを一枚取り出して、廉に渡した。廉も自分のカードを渡す。泉は自分も立ち上がってこのやり取りを見ていたが、廉の妙に取り繕った態度が気になった。

面白くないのだわ……もちろんそうに決まっている。さっきの態度からして。

 それから廉は泉の方を向いて「千葉君と一緒だから」と言いながら左手を取った。あっ、と思ったが遅かった。指輪を確認したのだ。今日は学校から急いでここまで来たのでバッグの中にしまったままだ。明らかに廉はむっとしていた。その手をぽんぽんと叩き、イアンに「会社の者と一緒なので」と挨拶して窓際の方へ移って行った。窓際の外のイルミネーションが美しく見える席。千葉も泉に気づいて驚いて会釈してきたが、泉はこわばった笑みを返すのが精一杯だった。そこにはきっと自分が座るはずだった……

イアンと泉はまた席に座ったが、その後出てきたデザートの味は泉にはよくわからなかった。廉はあれからこちらを見ようともしないし、自分はイアンの質問にただ答えているだけだ。
「彼は、婚約者なんだっけ? 確か、ミス・アンドウがそう言ってたような……」
しばらくしてイアンが言った。泉ははっとして「ええ」と返した。
「そろそろ店を出ましょうか。僕も明日戻る準備をしなきゃいけないし」
「ごめんなさい……」
泉はイアンに申し訳なく思いながら、窓際の席に座って話をしている廉に後ろ髪を引かれる思いで店を出た。

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