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雪待月    10



 その夜、泉は他の三人より先に眠りについた。薬のせいか、廉が来て大騒ぎした時を除いてずっと眠かったのだ。三人は久しぶりに会って、リビングでずっと話をしている。

 夜中、ふと気づくと、廉がベッドの端に腰掛け、横になった泉の髪をすくようにゆっくりなでつけていた。
「あ、ごめん。起こした」
泉はほの暗い部屋の中、廉を見上げた。頬にかかっていた廉の手の上に自分の手を重ねると、廉が笑った。唇が落ちてきて、それに応えると、廉が訊ねた。
「身体、どう?」
廉はひじで自分をささえて泉を潰さないようにしている。
「――大丈夫。だって、今日眠ってばっかりだし」
「眠いの?」
「ううん、今は……あ」
泉は首を振ったが、騒動で忘れていたことを思い出した。
「肝心なこというの忘れてました。あの例のサンプル……廉さんが作ってくれた、あれ」
廉は「うん」と小さく頷いた。
「プロデューサーがそのまま使うって言って……ええと、もちろん音は加工したんですけど、ソースは廉さんのを使うってことに……」
「ええ? じゃ、録り直ししなかったの?」
「はい……」
廉が困ったような顔をした。
「――あれでやるのか……あれで……」
やっぱりはじめに聞いておけば良かった。泉はその表情に少し後悔した。
「あの……だめですか? だめなら……」
「いや……別にいいんだけど……うーん、もっとちゃんとウォーミングアップしとけばよかった。君にかっこいいとこ見せつけたかったから、ちょっとやり急いだかなって……」
廉は頬を摺り寄せながら言った。
「そんな風には思わなかった。すごく良い出来ですよ」
「君みたいなヘタッピィに言われてもね……」廉がくすくす笑う。
「ひどーい」
小さい声で廉を非難した泉は、もう二度と彼の前ではやらないと心の中で誓った。
「――マスター・オルドリッチに根回ししてくれたのも廉さん……でしょ?」
廉はいたずらを見つかった子供みたいに照れ笑いした。
「オルドリッチがどんな人物か知らないけど、コンダクターがいきなりサンプリングに合わせて振れなんて言われたら、ごねるかも知れないと思ってさ。だから綾子さんに言って、オルドリッチの師匠にうまく持ち上げてやってもらえるよう頼んだ。それはうまくいったみたいだね」
「うまくいったどころか……やる気満々でした。オルドリッチは。私、このこと綾子さんから聞いて、すごくうれしかった。廉さんが自分のこと嫌いになったんじゃないってわかったから」
廉は本当にそういう根回しがうまい。仕事もたぶん三手ぐらいは先を読んでやっている。だから、彼がやるとうまく行くのだ。廉がこうして見えないところで自分の仕事のサポートをしてくれているのが、泉には本当にたまらなくうれしかった。


「ねぇ、泉。僕も聞きたいことがあるんだけど……」
「なんですか?」
じっと自分を覗き込む廉の瞳がきれいだ。

「僕たちの婚姻届はどこにやったの?」

ああ、忘れてた。
「それは……ごめんなさい。私が持ってます。こっちに来る前に、叔父にサインをもらってきました。」
廉はそれを聞いてフーと息をつき、上半身を起こした。
「一緒に行こうって言ったのに……でも、捨ててはなかったんだ」
「捨てるって……そんなことしません。あ、まさか……」
自分があの時、怒ってそれを捨てたと思ってた?
「ああ――無くなってるのがわかったときは、心臓が止まった。君に捨てられたと思って、ゴミ箱まであさった。でもそこにはなかった。けど、君が持って行ったって事は、つまり、僕がそれを出せないようにしたんだって」
「私ってすごい意地悪みたいですね……」
泉はおかしくなってくすくす笑った。そんなこと考えもしなかった。
「それで、君はもう僕の誕生日なんて来てくれないんだろうなって思ってたのさ。まぁ、あの時あんなに酷いこと言ったのは反省したけど、それにしたって、こんな仕打ちは無いんじゃないかって思ってた。土曜日の朝までは」
土曜日の朝?
「ああ。二日酔いが酷かった日?」
「そう。もうあの日は夕方までほんと大変だった。でも冷蔵庫に一杯、君がつくってくれた料理があって……プレゼントも。ありがとう」
廉が泉の頬を指でつまんだ。
「うれしかったけど……一人で、すごく惨めだった」
「廉さん……」
額にかかっていた廉の手を泉の手が押さえて頬に持っていった。廉の親指が頬を行き来する。

「僕はね、泉。君がいろんなことで人に手出しされるのが嫌だって事はわかってる。おかげで、いくら短気だって言われても、前よりは多分、我慢もするようになったと思う。けど、君がつらい状況でいるときに何もしないでいられるほど、出来た人間じゃないんだよ。だから、君が病気のことを言ってくれなかったのは、はっきり言ってものすごく堪えた。秋実から君が倒れたって聞いたとき、自分がそうさせたんじゃないかと思って……あいつも性格悪いから、いつ帰れるかわからないとか言うし」

泉はもう横になっていられなくなり、起き上がった。ちょっと頭がぐらっとしたが、ちゃんと廉が支えてくれる。
「ごめんね、廉さん……ごめんなさい……私……怖くて言えなかった。私みたいな、何にもできない人間がお荷物になって、あなたを縛るんじゃないかって……でも……でも、あなたが好きなの。もうどうしようもないくらい」
自分はこんなに愛されてる。彼にとっては、病気かどうかなんて判断の材料にはならないのだ。それより、彼を信頼していなかったことの方がいやだと。今回のことは自業自得だと泉は思った。自分が自ら招いたことだ。それなのに彼は、わざわざNYまできてくれて、友達に殴られて、悪者にさえなってくれる。
泉は廉にしがみつくようにして、首に腕を回した。
「――なんか……やっと戻ってきてくれたみたいだね」

 こんなことを繰り返しながら、本当の夫婦になっていくのだろうか。彼が好きだから、彼も私のことを好きでいてくれるから、お互い考えすぎて、聞くことも聞けなかったり、やりすぎたり。

 廉の唇が降りてきた。もうビールの味も血の味もしない。甘いウイスキーの香り。舌を絡め取られて、そのまま寝巻きのボタンに手がかかる。

「廉さん……ここでそんなことしちゃ……」
泉が止める手をよけながら、廉は上手にそれを外していく。
「風紀委員のセンセーに怒られる? いやいや。あいつからもらったんだ。これ」
廉がズボンのポケットから取り出したものを見て、泉はまた赤くなった。男同士って、そんなことまで話するの……
「でもあいつ、ケチだから一つしかよこさなかった。君を苛めたらいけないらしい。僕はかわいがってるつもりなんだけど……ねえ?」



 泉の頭の中では、小さな音の粒が色を放って輝き始めていた。初めは白い靄の中にいるのに、そのうち、だんだん聴こえる音の色がはっきりし始める。きらきら光って、靄の中からあふれるように出てくる小さな音楽……

ああ、また……

初めは、急がなければ消えてしまうと思っていた。

けれど、今はわかっている。もう何度もこんなことがあった。

繰り返し聞こえるその音は、頭の中で少しずつ大きくなり、まるで脅迫するかのように、ノートに書きとめるまで鳴り続ける。

流れるような音の連なりとなって。まぶしい色を放ちながら。




 雪待月   - 了 -

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