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雪待月 9 |
翌日の昼前に、泉は迎えにきた秋実と綾子と共に病院を出た。ホテルに一旦戻ってチェックアウトを済ませると、秋実の運転する車でNY郊外の一軒家にやってきた。NYで綾子が練習や公演のあるときにずっと使っているところだ。あまり大きくはないと秋実は言っていたが、それでもベッドルームは三つもあるし、ジャグジーの風呂や、綾子のために作られた防音の練習部屋もある。 ここには時々、メトロポリタンのオケの団員たちも呼んで大騒ぎするのだと綾子は言った。綾子は来週からクリスマス公演の練習に入るのだが、それまではオフだった。秋実の方は、あさってボストンへ一旦戻り、週末もう一度やってくるようなことを言っている。二人はずっとこうして相手の事情に合わせてボストンとNYを行き来している。 ――やっぱり、なるべくたくさん一緒にいたいからね。 秋実が何気なく言った一言が、泉にはとてもうらやましかった。自分たちは、これから一体どうなるのだろう…… 夕方、安藤から電話があり、レコーディングは無事に済み、スポンサーも満足して帰ったと聞いた。泉が昨日倒れたのを皆心配しているようだったが、ただの貧血でもう大丈夫だと安藤から伝えてもらっている。また、パブで話のあったとおり、NMMが自分たちのコンサートであの曲をやりたいといってきているがどうかと安藤が訊いてきた。泉はもちろんやってもらって良いと答え、手続きを進めてもらうように頼んだ。それに、まだ本決まりではないが、ハーディングが言っていた、サウンドトラックの話も本当になりそうだった。昨日、デライアの担当がやってきていて、これなら企画としても通せると言ったらしい。昨日撮っていたメイキングと合わせて出すことになりそうだ。しかし、泉の出番はもうほとんど無い。「後はサインだけが必要なので、右手だけは骨折しないでくださいね」と安藤が釘をさした。 夜になり、夕食を済ませて風呂も入り、着替えてもう寝るだけになった泉はリビングのソファに座ってぼんやりしていた。綾子は泉が手伝うといっても何もさせてくれない。今日はここに泊めてもらうにしても、明日はホテルに戻らなければ。でもその前に、ここに廉さんが来て、修羅場になるんだっけ……泉はくすっと笑った。貧血のせいか、薬のせいか、おなかが一杯のせいか、頭が馬鹿になってる。 ――こんなところまで人を呼びつけて、一体どういうつもりなんだ。ホテルの打合わせは来週だったけど、それも無理そうだな。君は予定を変えるのは本当に得意だな。ついでに結婚式もリスケするか? ああ、ほんとに言いそう……泉は廉が来たときのことを想像するうち、いつの間にか眠ってしまった。 うとうとし始めてから一時間も経っていないはずだったが、ふと気づくと、泉の目の前に廉と秋実がいた。夢かと思ったが、自分は起きているらしい。大きな男二人が恐ろしい顔でにらみ合っている。 「この馬鹿!」 秋実のこぶしが先に出た。廉は後ろに飛ばされ、口の中を切ったようだった。廉に限っては人に殴られることなど考えられないのだが、秋実も空手の有段者なのだ。 「何だよ! いきなり」 廉が体制を立て直しながら言う。 「お前みたいな奴は彼女と結婚する資格なんてないね!」 「ハァ!? 何をえらそうに。お前だって、綾子さんと一緒になる前はいろいろあっただろ!」 「俺は少なくとも地球を半分回って自分で彼女を探してきたよ! おまえはどうだ? ここに俺たちがいなかったら、彼女はきっとひとりで病院にいたんだぞ」 泉にはさっぱり訳がわからなかった。どうして彼らは喧嘩してるのだろう。それともやっぱりこれは夢? 「ああ、もう、やめて! 二人ともいい年して家の中で殴り合いの喧嘩しないで。物が壊れるから。大きな声出すから、泉さんが起きちゃったでしょ」 綾子がキッチンから出てきて、男二人をにらんだ。 「泉、帰るぞ! こんなところにいたら頭がおかしくなる」 廉は突然泉の方へやってきて無理やり腕を引っ張った。 「や、痛い!」 泉は廉の腕を振り払おうとしたが、廉は興奮していて、すごい力で泉を振り回そうとした。 「やめろ、馬鹿! 彼女は病気なんだぞ!」 秋実に言われて、廉ははっとして泉の腕を放した。 「なんだよ……何なんだよ!? 俺が一体どんな思いでここに来たと思ってるんだ。めちゃくちゃ心配したんだぞ! いつ退院できるかわからないほどひどいって言うから来て見たら、病院ではもう退院したって言われて! 君はいつだって俺が助けるのを嫌がって何も言わない。全く変なプライドだよ。ああ、俺だってずっと変だと思ってたさ。何か隠されてるって。だけど、俺は手出ししようにも、何にもさせてもらえなかった。病気だって、どうして言ってくれなかったんだよ! 俺は医者でもエスパーでもないんだから、黙ってられたら病気かどうかなんてわかるわけないだろ!」 廉はもはや我慢できず、ここぞとばかりに吐き出した。きっとずっとそう言いたかったのだ。 「ごめんなさい……ごめ……」 廉がそう言う気持ちは良くわかる。けどその後、どうしたら良いかわからない。泉はここで泣くまいと思ったが、あまりの突然の出来事に涙があふれて止まらなくなった。 「廉さんは怒ってばっかり、泉さんは謝ってばっかり……あーあ、攻めと受けのすばらしいことったら」 綾子は泉のそばによって、まるで子どもをあやすように背中をさすりながら自分の方へ抱き寄せた。 「ね。泣かなくてもいいの。大丈夫。あなたが悪いんじゃないのよ。さ、座って」 「――何で言ってくれなかったって……お前がそう考えるのもわからなくはないが、病気にかかったのはたぶん、大量に血を失ったからだ。けど、まさかあなたのせいでそうなりましたなんて言えるわけないだろ?」 秋実は泉を励ますようにちょっと微笑んでみせたが、廉は殴られたせいか、おさまりがつかない。 「俺はな、彼女の近くにいるようで、実際はいさせてもらえてなかった。いつも忙しいからって、嘘かほんとか知らないが、ずっと置き去りにされてきたんだ。だいたい病気が悪くなってからしか呼んでももらえないのに、非難だけはされるんだな! これから結婚するって言うのに、何にも知らないままで、ああ全く、俺はおめでたい人間だよ」 「それでも呼んでやったんだ。出番なんて全く無くなるところだったのに。何にも知らないお前がかわいそうだから。ああ、お前はかわいそうな奴だよ。言ってくれない、教えてくれない。クレナイ病だな。男のくせに、女々しい奴」 「なんだとぉ!?」 廉が秋実に掴みかかった。 「あ、ねぇ! 表でやって。表で。家の中でやらないで。お願い」 綾子一人が妙に落ち着き払っている。 秋実はフンと鼻をならし、一度大きく息をして、廉に背を向け居間を出て行った。戻ってきた時にはビールを2本手にしていた。1本を廉に投げ、一緒に持ってきた栓抜きで自分の瓶の栓を抜き、廉にそれを放った。廉が栓を抜くのを見てから、秋実は目で合図してテラスに出て行った。外はかなり寒いのだが。 「大丈夫。すぐ仲直りするわ」 綾子はくすっと笑って泉に微笑んだ。 「私、なんだか昨日から神経がおかしくて……いつも、こんなに泣いたりすることなんてないのに……」 綾子が近くのサイドボードの引き出しから取り出したタオルで泉の顔を拭いていた。 「今まで我慢してたことがいっぺんに全部出ちゃったのね。もう、我慢しなくていいのよ。隠すことなんて何も無いから。だってね、考えてみて。廉さんはね、あなたのことが好きでたまらないの。だから、隠し事されて、つらかったんだと思う。彼はずっと言ってたもの。泉が早く楽に生活できるようにしてやりたいって。秋実さんが廉さんのこと殴ったのは許してあげてね。彼もあなたのことずっと気にしてたの。いつ会っても顔色が悪いって。夏に彼だけ日本に行ったことがあったでしょう。そのとき、廉さんがいないところで、あなた彼にチェックされたでしょ? あの時、どうしてもっとちゃんと見てやれって廉に言わなかったのかって、彼も後悔してるの」 言われて泉は思い出した。東京で学会があるといってやってきた秋実と、廉と三人でレストランに食事に行ったことがあった。そのとき、廉がトイレにたった隙に、突然、秋実が「ちょっとごめん」といって、泉の瞼の下を親指でめくって、首筋を確認したのだ。その時も何を知られたのかと、心配で落ちつかなかった。 「さっきはね、廉さんがここにやってきて、明日もう、何が何でもあなたを日本に連れて帰るとか言い出だしたもんだから、秋実さんが怒っちゃって。お前は何にもわかってないって。スタジオで、あなたのバッグから落ちた薬を見たとき、彼、ものすごく嫌な顔したの。『この薬だけか?』って慌てて袋の中身全部出して確認したのよ。彼の亡くなったお兄さんと同じ病気じゃないかって思ったみたい」 ああ、それで…… ――秋実の兄。徹という名前のその人物は、ヴァイオリンの神童だったと廉は言っていた。まだ18だったのに、白血病で亡くなったと聞いている。確かに同じ系統の病気だ。自分の方はそんなに深刻ではないが。 「泉さん。結婚したらね、夫婦はずっと一緒にいるでしょ。仲良くしてても、喧嘩してても。だから、隠してるのがつらいような事は、早く言ってしまわないと、どんどんつらくなる一方よ。彼のことが好きならなおさらね。廉さんは気は短いけど、話せばちゃんとわかってくれる人でしょ?」 綾子がせっかく拭いてくれたのに、また涙があふれる。 「そう……そうですね……」 十分もすると、秋実と廉はテラスから中に戻ってきた。 「あーっ、寒! あったかいところに戻るとあらためて寒さを感じるな」 二人とも空になった瓶を手にぶるぶる震えている。 「当たり前でしょ。一体何月だと思ってるの。で、廉さん、ご飯は?」 綾子は二人から空瓶を受け取った。 「あー。食べてません」 「私たちはもう済ませたんだけど、どうしますか?」 「食べさせてもらえるなら、いただきます。喜んで。ぜひ、お願いします」 廉がばつの悪そうな顔をして、ぺこりと頭を下げた。 「じゃ、五分待って。食事の前に泉さんとのお話は済ませてね。そちらの寝室でどうぞ」 綾子は椅子に引っ掛けてあったエプロンを持ってキッチンに戻った。 廉が泉の手を取った。心臓がどきんと鳴る。 「おおーい。五分だけだぞ。ヤラシイことしてる時間はないからな」 メガネを探しながら秋実が声をかけた。 「学校の先生みたいなこと言うな!」廉が秋実をにらむ。 「――そうは見えないかもしれないが、学校の先生なんだ、俺は……一応な」 秋実は探していたメガネをかけなおしてつぶやいた。 寝室の扉を閉じて、廉は泉をベッドの端に座らせ、自分も隣に座った。間接照明のおかげで灯りがいい具合だ。彼とこうして二人でいるのは、一体何日ぶりだろう。泉は俯いたまま、廉の顔を見ることも出来なかった。 「身体、大丈夫なの?」 廉の手が俯いたままの泉の頬にかかった。泉は頷きはしたが、触れられて肩がびくっと震えた。 「夏に、入院したんだって? 静岡に帰ったって言ってた時か?」 泉はまた声もなく頷いた。秋実がそう話したのだ。きっと。もう、全部知られてしまっている。本当は彼に自分から話すべきだったこと。 「何にも知らなくてごめん。君は仕事して、学校も、リハビリも行って、病院にも行かないといけなかったんだ。それなのに……僕は自分の都合ばっかり言って、酷いことしたり……秋実にも言われたよ。君を怒ってばっかりいるって」 廉が泉の身体を引き寄せて頭を抱きかかえた。暖かくて大きい胸。ここに、早く戻りたいと思ってた…… 「廉さん、あのね……」 「何?」 泉の耳元で廉が訊いた。気持ちをしっかり持って、言わなきゃ。このまま結婚するわけにいかない。 「私、今の治療が終わるまで、子どもはダメだって言われてるの。もちろん治すつもりだけど、あとどれぐらい、治療に時間がかかるかわからないの」 廉の額が泉の額に降りてきた。「うん。おんなじこと、秋実からさっき聞いた」 「それでね……それで……」 泉は廉に見つめられて泣きそうになりながら、もう一度、深呼吸した。言わなきゃ。 「それで?」 「――それでも、私と結婚していいの?」 また、涙がぼろぼろこぼれた。もう全然止まらない。きっと薬のせいだ。 「バカだな。それで僕が結婚止めるかもって思ったの? 一つ言っておくけど、今更結婚しないなんて、何があっても絶対に言わせない」 「廉さん……」 廉は泉を抱いていた手を少し緩めて、頬にそれを持っていった。 「ヤラシイことする時間は無いって、あの風紀委員のセンセーは言ってたけど……」 廉の親指が泉の唇にかかる。 「もう何日かぶりだから……これぐらいはね」 廉の唇が泉のそれに落ちた。舌を絡めてくるが、廉の口の中はビールとかすかな血の味がした。 ――あなたが私のためにつくった傷……ごめんね。廉さん。 |
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