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雪待月    8


 翌日は朝からすばらしく良い天気で、スタジオにこもりきりなのが勿体ないくらいだった。ミキシングはほとんど終わっていて、午前中は調整だけとなり、本当は空きだった午後は、一曲だけやるそのために、NMMの団員全てがスタジオに集まった。スタジオの前の方には、ドラマのスポンサー等が座るための見学席が設けられており、暗いスタジオ内とは言え、さながらちょっとした演奏会のようだ。イアン・ハーディングがカメラマンを連れてきていて、ビデオを回している。たぶんそれでメイキングを作るのだろうと泉は思った。

 演奏曲目はTVドラマのタイトルである「フライング・フィンのテーマ」と「エンディング」、ドラマの途中で入れる効果BGMの短い三曲だった。泉がレヴィンとともにドラマのスポンサーの大企業オーナーたちに紹介された後、席に着こうとしていると、演奏の準備をしていた団員たちの方から「おお」と声が上がった。何事かと思い、彼らの視線の方を向くと、泉はそこにマスクをした綾子とその夫の秋実を見つけた。

「綾子さん!!」
泉が思わず声を上げると、それに気づいた綾子がぱっと笑って手を振り、マスクを半分はずしながら泉の方へやってきた。後ろから追いかけるように秋実もゆっくり歩いてくる。
「泉さん。久しぶり。元気だった?」
二人は抱き合って再会を喜んだ。あの春の時以来なので、もう半年以上会っていない。
「ああ、なんだか疲れてるみたいね。身体、大丈夫?」
綾子は泉の顔を見るなり、肩から腕をなでるようにして手を取った。
「ええ。もちろん。ちょっと疲れてますけど、これでもう終わりですから。それより、ありがとうございます。わざわざ来ていただいて。それに……ありがとうございました。綾子さんですよね? サンプリングの件でマスター・オルドリッチに根回ししてくださったの」
綾子は目を細めて、口角を上げた。
「あら、すっかりばれてるのね。でも、それを頼んできたのは廉さんよ」

やっぱり! 泉は胸が痛くなって言葉が出なくなった。彼は私のことを忘れていない? それとも単純に仕事の興味?
「あらあ? やっぱり何かあるのかしら? な〜んか変だったのよね。廉さん。電話で」
泉はそれに答えることが出来ず、視線を下に向けた。
「まあ、いいわ。その話は後にしましょ」

「――全く、君たちは会った途端にアブナイ雰囲気満点だな」
綾子の後ろからやってきた秋実がニヤニヤしながら二人の話が一段落つくのを待っていた。
「やぁね、秋実さん。すぐそういうこと言うんだから。女同士でどうするっていうの。ねぇ?」
綾子が泉の手を取る。
「こ、こんにちは……」
泉はちょっとヒキ加減で秋実に挨拶した。
「久しぶりだね、泉ちゃん。いや、うん、だからさ……君たちに限っては……」
こういうことをあんまり口にしなさそうな鋭い美形なのに、秋実は意外と平気でそういうことを言う。
「ネットでヘンタイ画像ばっかり見てるからよ。やーね」
「研究してると言ってくれ」
綾子はあきれたように秋実をちらと見て、泉の手を取ったまま開いている席を探した。安藤が上手のほうで手を振っている。綾子たちの席は当然取ってあった。

ほどなくコーディネータのハーディングが前に立った。挨拶が済むと、モニタールームから合図が出た。客が来ている手前、赤ランプを点滅させるわけにいかない。今回に限っては、マスター・オルドリッチは耳にはめた無線のイヤホンでリズムを確認することになっていた。

――演奏が始まる。

 自分の作った曲。廉が作ってくれたサンプル。オルドリッチが導く生のオーケストラ。レヴィンが編曲したすばらしい仕上がりのサブテーマ。全てが合わさって、やっとここまでたどり着いた。二十分ほどのほんの短い時間だったが、泉は胸が震えるような感動を覚えた。初めにやったときより数段良くなっている。来ていたゲストたちも、団員も皆が立って拍手をしていた。
泉はぼうっとした頭で、言葉もなく胸を抱えるように腕を身体に巻きつけていた。やめた方が良かったかとも思ったが、やっぱりやめなくて良かった。自己満足に過ぎないかもしれなかったが、たくさんの人が一つのものを作っていく、一人ではなしえない仕事だ。この気分はそこにいた人間にしかわからない。

 ところが、他の人々が拍手しながら立ち上がっていく中、泉は一人席を立てずにいた。立とうとしたのだが、身体が動かない。初めはぼうっとしていただけだった。頭が揺れて、変だと思ううちに天井が大きく回った。視界が狭まって真っ暗になり、膝に載せていた鞄が下に落ちて中身が散らばる。同時に、隣にいた綾子が「あっ」と声をたて、慌てて背中を支えた。

 気づくと泉はモニタールームに置いてあったソファに寝かされていた。綾子と安藤が泉を覗き込んでいて、「泉さん?」と呼びかけていた。泉はすぐに答えることが出来ず、ぼんやり綾子の顔を見た。
「秋実さん! 泉さんが……」
綾子に呼ばれて傍で電話をしていた秋実がやってきたが、泉は小さく首を振って、「大丈夫、大丈夫なんです。ただの貧血ですから……ちょっと静かにしてれば……」と言って秋実が脈を取ろうとした手を振り払った。




泉にはそれがどのくらいの時間だったのかわからない。ただその後、ひどく眠くてだるかったのだけが記憶にある。ホテルに戻らなければ……明日は飛行機に乗るのだし……泉は夢を見ているようだった。――廉さん。早く会いたい。

はっきりと目が覚めた時、泉は自分が泊まっているホテルではない別の場所にいた。ふと見回すと、綾子が秋実と二人で小さいテーブルをはさんで暗いその部屋でぼそぼそと話をしている。

「あ、気がついた? 泉さん」
綾子が立ってベッドの傍へやってきた。
「ごめんね。どうしようかと思ったんだけど、病院に連れてきちゃった」
ああ、そうなのか。どうりで覚えのあるこの消毒薬の匂い……泉はゆっくり起き上がり、綾子がベッドの脇に来た。
「すみません……ご迷惑おかけして……あの、私のバッグは……」
「そこに持ってきてるわ。ねぇ、泉さん。今日はここで泊まってもらうことになってるのよ」
「……でも私、もう大丈夫ですし。明日、日本に帰るので、ホテルに戻らなきゃいけないんです」
泉はベッドの反対側から足を下ろそうとしたが、綾子に止められた。
「明日日本に戻るなんて無理よ。身体、ものすごくだるいんでしょう?」
泉は返事も出来ず、シーツの端を掴んでいた。綾子に何を知られたのだろう?

「あのね。あなたが倒れた時ね、バッグの中、全部ぶちまけちゃったの、覚えてる? それで……中身を拾ってたら……お薬の袋があって……」
泉は呼吸がだんだん苦しくなるような気がした。見られたのか。薬を……

「プレドニン……プレドニゾロン……ステロイド剤だね」
ベッドの向こう側にいた秋実が言った。
「忘れずにちゃんと飲んでた? あの薬はね、急にやめると、だるくなったり、血圧が下がっちゃったりするんだよね。飲み忘れてたのかな」

もうだめだ。たぶん、全部知られてる……秋実は今はもう辞めているが、少し前までUSで内科医をやっていたと聞いている。わからないわけが無い。泉はがっくりと肩を落とした。思わず涙が零れ落ちる。
「泉さん……ねぇ、泣かないで。私たち、あなたを責めてるわけじゃないのよ。でもここに連れてこないわけに行かなかったの。ものすごく心配したのよ」
綾子が泉の肩を抱いた。
「でも、帰らなきゃ……私、帰りたいんです。どうしても」
泉は涙をぬぐった。
「気持ちはわかるけど、それは多分無理だね……先生に来てもらおう」
ベッドの頭の壁にあるナースコールのボタンを秋実が押して、泉が目覚めたと告げた。


 やってきた医師は、泉に秋実と綾子に同席してもらうか訊ねた。泉は頷くしかない。こんなに迷惑をかけているし、もはや嘘がつける状態でもない。泉の血は連れてこられてすぐ、検査のためラボに送られていた。三時間ほどだったが、その短い時間でもう結果が出ていた。赤血球の値は思ったほど悪くない。もっていた薬のことを聞かれ、泉は仕方なく、自分が半年ほど前、事故で大量に血液を失い、その後この病気にかかったことを話した。きちんとした病名を英語で説明できない泉は、秋実に通訳してもらった。医師は日本での治療の経過や、薬のことについても訊ね、泉はそれにも正確に答えた。綾子が隣でため息をついている。

 結局、医師はちゃんとした治療は日本に戻って行わなければならないが、少なくとも今夜はここに泊まって、体調を整えてから帰国するように言った。検査結果自体はそれほど悪くない。ただ、疲労が重なっているので、貧血を起こしたのではという話だ。
「今の治療はもう半年になります。慢性に移行してるんじゃないかって思うんですが」
こんなところでとは思ったが、泉は思い切って訊ねた。 「さっきも言ったけれど、今のところ、赤血球の値はそれほど悪くありません。6ヶ月が過ぎたからって、すぐ慢性化したとは言えませんね。でも過労はいけませんよ。日本に帰るにも体力が必要でしょ? 明日退院しても、帰るのはもうちょっと待ってからのほうがいい。ホテルに滞在してるの?」
「いや、うちに来てもらいますから」
泉の答えを待たずに秋実が答えた。綾子がメトロポリタンと仕事をすることが多いので、住まいはボストンだが、NYにも家を持っている。
「あの、でもそれは……」
「そうしてもらうよ」
秋実は泉に反論させなかった。

 帰ることで頭が一杯で取り乱していた泉は、医師からあらためて今日はここへ泊まりだと告げられて、少し冷静になった。もうできることなど何も無い。ただ、ここにいるだけ。彼にはなんて言おうか……何て言うって、もう、結婚そのものもダメかも知れないのに……


医師が出て行った後、泉は秋実に言った。
「秋実さん、お願いがあるんです」
綾子の後ろについていた秋実がベッド脇にきた。
「何?」
「申し訳ないんですけど、私がすぐに帰れなくなったって、廉さんに電話してもらえませんか。私が電話したら、またどうしてって、質問攻めにされて、怒らせちゃうと思うので」
泉はもう全てに自信が無かった。それに、自分が電話しても、出てもらえないかもしれないし……
「泉さん。廉さんと喧嘩したの?」
綾子が突然訊ねた。
その言葉を聞いた泉の目からまた、ぼたぼた涙が落ち始めた。泣くつもりではなかったが、止めることもできない。
「ごめんなさい……ごめんなさい」と言いながら、泉は渡されたティシュで涙をぬぐった。なんだかもうめちゃくちゃだ。

「あのね、泉ちゃんには悪いと思ったけど、もう廉には連絡しちゃったんだよね。あいつ、はっきり言わなかったけど、君がなかなか自分のところに来てくれないから、ちょっと意地悪したって言ってた。そしたら、それから変なことになっちゃって、ずっとすれ違ってるって。本当は成田にも車で送って行くって思ってたみたいだけど、あんまり面白くないことが続いて、前の日に飲みすぎて起きられなくなったって。いい年して、バカだね」

泉はゆっくり顔を上げた。そうだったんだ……廉さん……

「……全く、男ってしょうがないわね」
綾子がため息をつきながら秋実の方を見た。秋実は目を丸くして、「俺もか?」と言うような顔をしている。
「私、彼に自分の病気のことが言えませんでした。何やってるんだって、疑われてたみたいだけど……ちゃんと治療してたら治るって聞いてたから言わなかったんです。だけど、ちょっと油断してたら、だんだんまた悪くなってきて、おまけに、今回の仕事を無理やり請けて、ますます身動き取れなくなってしまって。だから、日本に帰ったら、仕事は全部お休みして、ちゃんとしようって思ってたんです」

「君は気を遣いすぎだし、廉は我侭が過ぎるね。まぁ、明日の夜、たぶん来ると思うから、そのときにたっぷり絞めてやらなきゃな」
秋実が楽しげに言う。
「明日? あしたって……」

「うん。来るよ。お前のせいで倒れたって、脅しといたから」


――廉さんが来る。ここへ……



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