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雪待月    7


 二日後、泉はブロードウェイのはずれにあるエヴァレット社のスタジオにやってきた。受付で名前を告げると、二階のスタジオに行くように言われた。NMMのメンバーは既にやって来ていて、個々に練習を始めている。自分の書いた曲があちこちで鳴っているのは恥ずかしくもあり、うれしくもあった。泉はその容貌からすぐコンポーザだと知られてしまい、あちこちから握手を求める手が差し伸べられた。
 奥のミキサールームではエヴァレットのイアン・ハーディングが誰かと話をしていた。泉はNMMのマネージャに案内されてその部屋に入った。イアンはすぐ泉に気づいてそばへやってきた。
「遠いところをありがとう」
「お元気でした?」
泉が笑って訊ねる。
「もちろん! もう録音が始まるのに興奮して、ちょっと昨日は寝られなかった。だって、君はまだ聞いてないだろうけど、本当にいい感じなんだよ」
「そうなんですか。私も早く聞きたい」
NMMのメンバーは数日前から練習に入っている。泉はこれから三日だけの参加だが、最終の録音と、ミキシングに立ち会うだけだ。
「録音は予定通り今日の午後に始めるよ。ええとね。例の件……」
ハーディングが口ごもる。「僕もはじめ反対したけどね」
サンプリングドラムのことを言っているのだと、泉にはすぐわかった。
「私は賛成したよ?」
隣にいた男が口を挟んだ。
「はじめまして。プロデューサのマイケル・レヴィンです」
ひげだらけで大きなおなかのレヴィンはプロデューサと言うよりはミキシングエンジニアといった風情だ。アレンジもこの人がやったと聞いている。サブテーマも、ドラマの中で使う効果用のBGMもこの人がアレンジした。自分がやるよりはるかに大変な作業量だっただろう。
「はじめまして」
泉はマイケルを見上げながら日本のプロデューサと呼ばれる怖い人たちとは全然違う朗らかな感じに安心感を覚えた。
「マイケルにそのほうが絶対良いって言われて、僕も考えを変えたんだ。でも、どうやってジョナサンに振らせるかって、二人で頭を悩ましてたんだよね。けどNMMの練習が始まってふたを開けてみたら」
イアンがマイケルの方を向いた。
「ジョナサンがリョーコ・イチノミヤからその話は聞いてて知ってるって。リョーコ・イチノミヤは君の友達?」

「え!? 綾子さん? 綾子さんが……?」
どうして彼女が……?
「そう。ジョナサンはメトロポリタンのバーネットからも電話をもらったって言った。サンプリングに合わせて振るんだってなって言われたって。バーネットにまで根回ししたのはリョーコかな?」

今回の話は急に決まったので、綾子には何も話していない。それなのに、彼女がこの話を知っていて、バーネットにまで話していた? イーサン・バーネットはジョナサン・オルドリッチの師匠なのだが、オルドリッチもバーネットに言われたら、やらないわけにいかないだろう。この話を綾子にしたのは……

廉だ。彼以外にいない。

「――それで、マスター・オルドリッチは……何か言われていましたか?」
恐る恐る泉は訊ねた。サンプリングに合わせて振れなんて、コンダクターに向かって、そんなばかげたお願いを、マエストロと呼ばれるような人に聞いてもらえるかどうか、本当のところ、泉はここに来るまで不安で不安でしょうがなかった。もし断られたら……断られたら、この仕事の全ての日程に影響が及ぶ。最悪、自分でと言うことも考えられる。
「チャレンジングな仕事だって。ちなみにこっちのサンプリングは仮メロで別トラックにとってあったあのドラムを使わせてもらったよ。あの中にいいのがあったから、そこから切り貼りさせてもらった。ジョナサンにも手伝ってもらったんだよ」

自分の仕事ではなかったが、泉は何故か赤くなった。廉の……あのリズムがサンプリングされた。彼はなんて言うだろう……この録音に意図せず参加したような形だ。クレジットが出るなら連絡しなければ。

「あ、ジョナサンが来た」

ガラス窓の向こうの廊下から手を振っているオルドリッチの姿が見えた。茶色いセーターにメガネをかけて大きなかばんを持っている。泉はイアンにオルドリッチを紹介してもらった。オルドリッチは大変気持ちの良い人物で、泉の曲を短い期間で本当に良く読み込んでおり、次々と質問を浴びせた。確認することだけでもほとんどまるまる一時間かかった。サンプリングの件も、「わかっているので大丈夫」とにっこり笑って泉を安心させてくれた。

午後から合同練習になり、明日から個別の音取りが始まる。皆でやるのは今日が最後だ。大きいスタジオに移ってマイケル・レヴィンの作ったドラムのサンプリングをPAを通して鳴らしてみるが、泉が「わぁ」と思わず声を上げるほど非常に良い出来だった。これに合わせて、デジタルのメトロノームの赤いランプが光るようになっている。リズムは途中入らない部分もあるので、オルドリッチはこれを見ながらタイミングを計るのだ。

泉は最後のミキシングの時までほとんどやることがないので、団員の練習中はずっとレヴィンのそばに座っている。こんな有名なオケの練習をそばで見られて、おまけに自分の曲を演奏してもらえるなんて……泉は廉や綾子に感謝せずにはいられなかった。



 その夜、泉はオケの団員が集まるパブに呼ばれた。オルドリッチは年寄りなので来ないがあなたは是非と言われて、泉はまるで誘拐されるようにスタジオのすぐ近くにあるパブに連れて行かれたのだった。みんなビールをがんがん飲んでいる。バンマスのジョン・ベケットがはじめは泉の隣にいて、ヴァイオリングループの団員がいるところに座っていたが、そのうちチューバ吹きがそこへやって来て話になだれ込んだ。

「いやー。あの曲演るの、これで最後なんてもったいないねぇ。ジョン?」
「そうだねぇ」
また別のおそらくホルン吹きもこれに加わる。たくさん人がいすぎて団員の名前もほとんどわからない。練習をずっと見ていたので、何の楽器担当かわかるだけだ。
「おもしろかったよねぇ。デジタルのリズムなんかって思ってたけど、なかなかどうして。レヴィンがあんなことも出来るなんて知らなかったよ」
「音録りしたらまた、感じも変わるよ。今日はほんとにデジタルに引きずられる感じだったけど、明日録るのはレヴィンが加工して生っぽくするって言ってた」
ジョンが言うと団員がへぇ〜と頷く。ああ、いいなぁ。オケって。皆で音楽作ってるって感じで。泉は自分がブラスにいた時のことを思い出した。
「あれ、うちのコンサートで演れないの?」
ヴァイオリンチームの女性が訊ねる。
「それはコンポーザー側と提供会社とうちの会社の偉い人次第」
NMMのマネージャであるロニー・イングラムがにっこり笑って泉の方を見た。
「私の方は何の問題もありません。コンサートに使っていただけるなんて光栄です」
泉が答えると、「第一関門は突破したな」と誰かが言った。
しかし、「いやいや。彼女のマネージメント会社がいいって言わなきゃ使えないよ」
とイングラムが待ったをかけた。たとえ自分の曲でも、コマーシャル上での話はなかなか難しく、一度表に出てしまったら、自分が思ったようには使ったりできない。
「じゃ、説得しなきゃ。君の仕事は山盛りだね、ロニー」
皆が一斉にイングラムの方を向く。
「うわー。なんだよ、後は全部俺か?」
その場にいた団員が皆、どっと笑った。


 それほど遅くない時間に泉はパブを引き上げた。ジェットラグがもっとあるかと思っていたが、今日は昼間緊張していたせいか、全く眠くなかった。夜もちゃんと寝られそうだ。気になっているのは、やはり廉のことだ。サンプリングの音源があのまま使われたのなら、やはり廉に電話しなくては……

これってただの口実みたい? ああ、もう何でもいい。彼の声が聞きたい。もし彼がまだあのスネ夫くんのままでも、とにかく電話しなきゃ。けど東京は十四時間のプラスだから、今は十三時を回ったころだ。午後の仕事が始まったばっかり……どうしよう。どうしようか……泉は散々迷って電話を閉じた。残念だけど、朝まで待とう。泉はシャワーを浴びて長かった初日を終えた。


 翌日、泉はイアン・ハーディングの電話で起こされた。
「イズミサン。ちょっとびっくりですよ。スポンサーに音録りの初めの版を聞かせたら、最終版を早く出せと言い出して、明日の最終録音にスポンサーが来ることになっちゃいました」
「はぁ……」
音録りの最終に来ても、別に挨拶するだけならなんてことはない。
「あのね、全員でもう一回演ることになったんです。ついでだから、デライアのサウンドトラック担当も呼んどきました」
「ええ? えええ?」
NMMの団員も自分の録りでないところには予定を入れていただろうに。おまけにデライアのサウンドトラック担当って……
「それって、サウンドトラックを作るって言うことですか? TVドラマで?」
「まぁ、まだ実際番組も始まってないし、決定ではないけど、たぶんそういうことになるでしょう。レヴィンがすごく乗り気だし。ああ、僕は今日、ものすごく忙しくなりそうなんで、ちょっと一緒にはいられません。オルドリッチとうまくやっておいてくださいね。じゃあ」
ハーディングはそう言って、早々に電話を切った。

まあ、そうは言っても、自分がやることなんて、もうほとんど無い。オケの稽古はオルドリッチがしているし、最終のミキシングで出来上がってくるものにあれこれ注文するくらいだ。泉は廉に電話をかけようとした。が、ちょうどそのとき、マネージャの安藤から電話が入った。
「あら? 安藤さん、今どこ?」
声が近い。
「へへぇ。実はさっき、ラガーディアに着いたんです。もうすぐ合流しますから。それより、泉さん。聞きましたよ。すごい評判いいらしいじゃないですか」
泉には安藤の含み笑いが見えるようだった。
「ええ? ああ、そうなんですかねぇ。私はただスタジオでマスター・オルドリッチと打合せして、レヴィンさんとミキサーで切り貼りしてるだけなんですけど。スタッフが何せすごいから……」
「そこでみんなをやる気にさせたのも曲の力だと思いますよ。あと、綾子さんも次の公演の練習でこっちに来るらしいですね。だんなさんも一緒ですって。明日、皆に会えますよ」
安藤がヒールをかつんかつん言わせながら歩いているのが電話越しにもわかる。
「うわぁ。そうなんですか。なんだか、にぎやかなことになってきましたね。私、来たときは心細かったんですけど」
「それは申し訳ないことしました。私が調整つけられなかったから。とにかく、今から行きますよ。じゃ、あとでまた」
彼女はずっとあんな感じだ。連絡は全て移動時間にやる。今月もNYとフィレンツェを3往復ずつしている。恐ろしいほどのバイタリティ。まるでブルドーザーのように仕事を片付けていく。泉はほうっとため息をついた。なんだかちょっと身体がだるい気がするのは、ジェットラグがきてるせいだ。廉に電話と思ったが、たった二本の電話に疲れて、かける気力がなくなってしまった。後からメールでも打っておこう。きっと返事はこないだろうけど。


 その日の夕方、ようやく最終ミキシングが始まった。それから夜中を過ぎる頃まで、泉はレヴィンと一緒にミキシングの調整作業を続けた。面倒な作業ではあるが、曲が出来上がっていくこんなに楽しい時間は他にない。おまけに、廉の叩いたドラムのサンプリングがずっとベースになって流れるのだから。音色は加工されてはいるが、廉が叩くリズムが正確なので、レヴィンはその音源をロールさせるのではなくほとんど切り貼りしていた。微妙な生のリズムの感覚が心地よい。オルドリッチもその方が良いと言ったらしい。これはますます廉に早く知らせなければと思い、泉は合間を縫って日本へ電話をかけたが、案の定、繋がらなかった。


 泉たちはその日、夜中過ぎまで作業を続けて、ようやく一通りの音源を作り上げた。まだつくりの甘いところはあるが、後はレヴィンが調整することになる。一方で、オケの方も明日、スポンサーのおえらがたが来ると言うので、夜の十時過ぎまで練習をしていた。オルドリッチとジョン・ベケットがミキサールームにやってきて、最後に明日スタジオで鳴らすサンプリングドラムの音を確認して行った。彼らが練習中に使っていたリズムより、更に良くなっているのを確認した二人は明日がとても楽しみだと言って、疲労の色も見せずに帰って行った。


 スタジオを引き上げてホテルに戻った後、泉は自分の電話を眺めながら、廉にもう一度電話するかどうか考えあぐねていた。このぼんやりした頭では、たとえ電話が繋がったとしても、変なことを口走ってしまいそうだ。

やっぱりやめておこう。今日は。

泉はベッドに仰向きに倒れこんだ。まぶしいわけではないが、片手で光を遮るように目を覆う。

彼からも何の連絡もない。あれから何も……もう私の事なんて忘れてしまった……? そういえば、置いてきた誕生日のプレゼントにも、何の反応もなし……

――けど……こんなことになったのは自分のせい……私、都合が良すぎる。もしかすると、もうだめ……?

鼻がつんとして、涙がぽろっとこぼれる。う……と思わず声がでてしまった。のろのろ起き上がってティシュを取る。

自分がやったことに責任持たなきゃ。彼とのことは、自分にできるだけのことはやってみようと決めた。今、連絡が取れないからといって、それぐらいのことで泣いててどうするの。もうすぐ帰れるのだし。明日終わったら。明後日には日本に帰るのだし。泉は戻る日のことを考えながらシャワーを浴びるため風呂場へ行った。

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