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雪待月    6



「ただいまぁ。って誰もいないんだよなぁ……うちには」
酔った廉の声が玄関から聞こえた。
「ちょっと、廉さん。しっかりしてよ。ほら。靴脱いで」
女性の声だ。泉の胸がきゅんと縮んだ。どうしよう。ここにいるのはまずい? それとも出て行くべき? 泉はちょっと迷って、出て行くことにした。少なくとも自分は表向き婚約者なのだし。左手の薬指にはまった指輪をもう片方の手で握る。大丈夫。あわてないの。こんなことなんでもない。泉は廊下に出た。

「あら。誰もいないって、いるじゃないの」
どう見ても夜の仕事の女性が廉の靴を脱がそうと玄関にしゃがみこんでいた。廉はひどく酔って玄関にうなだれて座り込んでいる。
「あのね。私は彼をここに連れてきただけよ。言っとくけど。そりゃいい男だから、うまくすれば食べちゃおかっては思ってたけど」
女性は廉の靴を脱がせながら上目遣いに言った。泉は何と返事をしてよいのかわからず、自分も玄関に出て、廉のもう片方の靴を脱がせるのを手伝った。
「今日は、とっても面白くなかったみたいね。彼。誕生日だって言ってたけど」
それを聞いても泉は何も答えられず、曖昧な笑みを返しただけだった。靴紐を何とか解いて女性は廉の片方の靴を脱がせて立ち上がった。
「じゃ、私はこれで」
泉は「どうもありがとうございました」と頭を下げて礼を言った。私は彼の何? 自分がどこまでやったらいいのかわからない。この不安定な気持ち……。


 女性が玄関を出て行ってから、泉はもう片方の靴を脱がせるのに四苦八苦した。紐が解けない。どうしてこんなにきつく結んであるの。もう! 泉はそれでも何とか紐を解いた。そして乱暴に廉の腕を取り、ふらふらの廉を立たせた。

「ああもう、重いんだから!」
泉が思わず言うと、そこで初めて廉は泉の存在に気づいた。
「あれぇ、泉。どうして、ここにいるの。ほんとの泉?」
泉は廉を担ぐようにして寝室へ連れて行こうとしていた。
「ええ、そうです。ほんとの泉です。嘘の泉がどこかにいるの?」
「いるよぉ。さっきまでそこに……フーン。こっちは本物?」
廉はそう言って泉の胸をむんずと掴んだ。
「きゃ!」
泉は驚いて廉をそこに放り出しそうになった。ひっぱたいて起こしてしまおうかとも思ったが、廉はもう泉の肩にうなだれて半分眠っている。しかたがないので泉は廉を引きずるように廊下を歩いた。


 ようやく寝室までたどり着き、廉をベッドに放り出すと、泉は一つ大きくため息をついた。それから廉の上着とタイを剥ぎ取り、Yシャツを脱がせ、ベルトをはずしてズボンも靴下もぬがせた。大きな酔っ払いをあっちにこっちに転がしながら、泉は廉をなんとかベッドの上掛けの中に入れた。

 やれやれ。泉は自分の手を廉の頬にやった。髭がざらざらする。自分がタイミングを逃して、ここに来ると言えなかった。だから、彼は自分で自分のお祝いをした。きっと面白くなかったのよね。何にもしてあげられなくてごめんね。廉さん。


 泉はダイニングテーブルに広げた皿を片付けて、作った料理をお弁当のように別の皿につめなおした。冷蔵庫にあった魚も焼いてマリネにしておく。子牛肉が鍋に、マリネが冷蔵庫にあること、前菜のソースがどれか、泉は廉が後から見てわかるように、リビングのテーブルの上にメモを残した。

書斎の机の上に廉の誕生日のプレゼントに買ってきたカフスを置いた。あまりにも自信がなくて、最後に叔父にサインをもらった婚姻届は置いていけそうに無かった。泉は寝室に戻ってベッドの端に座り、もう一度廉の寝顔を見た。

彼は自分に愛想をつかして、もうどうでもいいと思っているのだろうか。自分のわがままのために廉が苦しんでいるかもしれないということはわかっていた。けれど、妥協してしまったら今までやってきたことが全部だめになってしまうような気がしていた。ピアノから作曲にかわることは自分にとっては大きな冒険だった。今までのように練習はしなくても良かったが、ピアノ以外の楽器をもっと良く知る必要があったし、左手のリハビリもしなければならない。遅れて入った作曲科で本当にうまくやっていけるのか、他の生徒に追いつけるのか。心配事は山ほどあった。それに加えて結婚の準備。それでもう目一杯だったのに、自分があの仕事を請けたから……

今更後悔しても遅い。廉がどう思っていようと、仕事を途中で投げ出すわけには行かない。もし、これで彼との仲がだめになったら……

――だめになっても、生きていけるだろうか……?

泉は自分で首を振った。そんなこと考えるのはやめよう。自分はまだ彼に許してもらう努力もしていない。出来ることは全部やると決めた。病気のことも、彼のことも。日本に戻ってきてからになってしまうけど。

泉は廉の唇に静かにキスして部屋を後にした。



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