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雪待月    5


 翌日、泉はただひたすらオケ音源の仕上げをしていた。明日からスタジオで最終調整する。これが全ての元になる。この間、廉が叩いてくれたドラムの音も切り貼りしてサンプリングしていく。廉の部屋だと、作業がもう少し効率よく進められる機材があるが、今更、彼のところへは行けなかった。あれから電話もしていないし、かかってもこない。少なくとも作業中は彼のことを忘れようと思うのだが、リズムのサンプリングをしている間だけはどうしてもそういうわけにはいかず、そのドラムの音を聴くたび、廉を思い出して胸が苦しくなった。

 水曜日、泉はスタジオで最終のミキシングに入った。安藤が手伝いにミキサーの速水を呼んできてくれていたので、泉が当初考えていたよりずっと早くに音が出来上がった。仮メロにしてはずいぶんいい出来だ。ストリングスをもっと調整するか、すげ替えるかすれば、そのままゲーム音楽にでも使えそうだった。泉はスタジオに備え付けられたPCの回線を使って、ネットでそれを安藤に送った。安藤はすぐそれをエヴァレット社に送るだろう。海の向こうで仮メロを待っている人間が何人もいる。

一日余裕が出来たせいで、翌日泉は大学を休まずに済んだが、二週間ぶりに行った病院では主治医の藤原から酷く脅された。しばらく投薬だけになっていたのだが、検査結果を見た藤原は点滴すると言い出した。
「どうして先週来なかったの。薬も切れてたんでしょ。赤血球の値、見てごらん。また悪くなってるよ」
「すみません……」
自分のことだが、頭を下げるしかない。
「前にも言ったけれど、あなた、これから結婚するんでしょ? 子供も産みたいでしょ?」
「はい」
「この病気はね、きちんと始めに治療しておかないと、慢性に移行しやすいの。ずっと薬飲んだり、脾臓とる手術なんてヤでしょ?」
「はい」
「もう半年過ぎるからね。境目なんだよ。ほんとに治す気があるならきちんと来て下さい」
「はい」
ここで来週これないと言ったら、この医者は何と言うだろうか。泉は、「NYから戻ってきたらすぐ来ますから」と心の中でつぶやいた。
「じゃ、お薬は二週間分だしとくから、きちんと飲んでね。来週もちゃんと来てよ」

 夏に三日ばかり入院した後、身体の具合がかなり良くなって、病気のことを忘れている時期さえあった。もう治ったかのようだったのに……調子に乗りすぎていたのだ。ああ、ばかだな……私って。泉は病院から帰る道すがら、藤原の言ったことを考えていた。急性なら投薬でかなりの確率で治ると聞いていたから、多分大丈夫だと思っていた。結婚するまでにはきっと治せると考えていた。けれど、このまま慢性化したら……廉さんに知られたら……言わないつもりでいたけれど、結婚してもこのまま言わないで……言わないで通す? 泉ははたと立ち止まった。

病気を持ってるのに、それを言わないで結婚なんかしていいのだろうか。相手をだますのと同じことだ。

廉には言わないといけない時が来るかもしれない。あるいはこの結婚自体を考え直さないといけないのかも……泉はどんどん暗くなるその考えを何とか振り払った。今、どうするというのだ。とにかくこの仕事をきちんとあげて、休みが取れるようにしなければ。廉に言うかどうかは帰ってきてから考えよう。今、それを考えていたら、暗い気分にずっと振り回される。自分の本来やるべきことができなくなる。


 その夜、泉は廉に電話したが、またしても繋がらなかった。三度かけたがやはり繋がらない。仕事なら事務所にいるのだから繋がらないことはない。接待か、あるいは遊びか。廉は接待があるときは大抵、その前に教えてくれるのだが、先週も今週もほとんど話をしていないので、それがあるかどうかさえわからなかった。遊びは……自分とこんな状態なら、もちろんあるかもしれない。大体、自分が始めて廉に会ったのも銀座だった。

暗い気分にならないよう、泉はその日は早く寝ることにした。明日は午前中、静岡に戻って叔父に婚姻届の証人欄にサインをしてもらうことにしている。サインをもらいに静岡へ一緒に行こうと以前から廉に言われていたのだが、もうあまり日にちがないので、自分で行くことにしたのだ。夕方、戻ってきたら、廉の部屋で誕生日のお祝いの食事を作るつもりだった。廉と連絡が付くかどうかはわからないが、自分のできることは全部やろう。彼に何もしてあげられない自分の言い訳を少しでも減らすために。


 翌日、泉は朝から新幹線に乗って、静岡の市役所で戸籍謄本をもらってきた。その足で叔父の家へ行き、畑仕事をしている叔父の昼休みを見計らって、婚姻届にサインをもらった。今日は廉は来ないのかと訊かれて、泉は痛いところを突かれたような気がした。廉はこれまでにも何度もこの叔父の家に足を運んで、酒も一緒に飲んだりしているので、本当はそうしたかったのだろう。叔父の家には子供がいないので、泉は自分の母が亡くなった後、まるで本当の子供のようにしてくれている。叔父たちには感謝で一杯だった。

夕方、東京に戻ってきた泉は、スーパーマーケットで食料品を買い込んで、廉の部屋で昨日のうちに決めておいたメニューで食事の準備をした。明日になっても食べられるよう、前菜の種類を大目にしている。彼がいつ帰ってきてもいいように、メインディッシュは子牛肉の煮込みにした。その前に出す魚は廉が帰ってきてからでも充分間に合う。

しかし、九時を過ぎても、十時を過ぎても廉は戻って来なかった。もうすっかり準備は出来て、いつ帰ってきてもいいのに。「誕生日にご馳走作りますから」と言ったことは忘れてしまったの? 夕方に電話をしておくべきだったかもしれないが、泉にはそんな勇気もなかった。

ああ、自分が言うこと言わないから、いつもこうなる。どうして肝心なときに、肝心なことを言いそびれるんだろう。

――そんな勇気がなくて、あなたに拒否されるのが怖くて。もう愛してないと言われそうで。勝手なことしてるから。仕事もやめないから。こうして、都合のいいときだけ彼の部屋に来ようとするから。

泉の目からぽとりと涙が落ちた。

そう。勝手なのは私……彼は悪くない。



その時、玄関の方で物音がした。鍵を回している音がする。泉は慌てて涙をぬぐった。



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