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雪待月    4


 月曜日、泉は午後講義がない。例の曲の第一版のスコアはもう送信してしまっていたが、NYには音源を後から送らなければならない。譜面がデータになっているので、オケのサンプリング音源を作るのは難しくないのだが、問題はリズムだった。今回の曲はちょっと変わった趣向で、リズムをサンプリングドラムでやろうとしている。本当ははじめからシーケンサーで打ち込みをすればいいのだが、少しやってみたところで、泉はそれではダメだと思った。どうもうまく載っていかない。サンプリングが悪いのではない。自分が載せようとしているリズムが悪いのだ。多分本物のドラムで少し叩いてみればわかる。泉はそう感じていた。スタジオは水曜日からの予約だったし、どうしようか悩んで泉は結局、廉の部屋へ行くことにした。近いうちに、静岡の叔父のところへ行って、婚姻届にサインをもらいに行こうとしていたが、その紙も廉の部屋にある。
 
 高校生のとき、ブラスバンドでパーカッションをやっていた泉は、下手ではあるがドラムの叩き方は知っていた。ドラムセットがあって、今すぐ機材がそろっているのは廉のところしかない。泉は廉にまた電話したが、都合が悪いのか、やはり電話には出てもらえなかった。仕方が無いので、泉は廉の部屋のドラムセットを貸して欲しいとメッセージに吹き込んで留守電に残した。


 たぶん、早い時間に帰れば廉に会わずに済む。泉はそう思っていた。廉には会いたかったが、今の状態ではできれば顔をあわせたくなかった。この間、ニューヨークへ行くと伝えた日からずっと話もしていない。一体、こんなことで本当に結婚など出来るのだろうか? 

 預かっているキーで廉の部屋の鍵を開け、泉は中に入った。まるで泥棒に入ったような気分だ。もちろん、廉は今までも自分の部屋もそこに置いてある楽器も機材もいつ使ってもいいと言っていたから、今日、ここに来たことを責められるとは思えなかった。結婚したらここに住むのだし、廉はそもそもずっと以前から、早くここに引っ越してくるように言っている。しかし、とりあえず留守電は残したと言うものの、直接、今日部屋に来ることは話していない。おまけに使わせてもらうのはピアノではなく、彼が一番大事にしているドラムセットだ。心の奥でごめんなさいと言いながら泉は部屋に入った。まず、例の紙をリビングのライティングデスクの中から取り出す。封筒に収められたその紙を取り出すが、ぺらぺらの音がするような薄さだ。自分と廉のサイン、それに廉の父親のサインが入っている。あとは叔父のサインだけもらえばいい。もう一度、それを封筒に戻してかばんにしまい、泉は音楽室に行った。

 PCを立ち上げ、廉に作ってもらっているアカウントで入り、シーケンサーソフトを起動する。アンプやチューナーのスイッチを一通り入れ、廉がいつもやっているように、天井からぶら下がっている紐に譜面をクリップで留めていく。スネアのピッチを少し上げ目にし、Bドラのペダルを確認する。やはり重い。以前、何度か座らせてもらったこともあるが、その時よりも重く感じる。廉が叩くのだから当然だが、彼はこれであたりまえのようにダブルストロークもやっていた。これだとそんなに長くは出来ないな……と思いながら泉はスティックホルダーから一番軽いスティックを選んで、脇にあった練習用のパッドでリズムを刻み始めた。2から16までやろうとしたが、16を刻んでいる途中で、泉は左のスティックを落としてしまった。傷ついたところが悲鳴を上げている。

 あの事件の後、泉の左手は半年のリハビリで、普通の生活には一見、ほとんど問題ないぐらいに戻っていた。ただ、以前のような細かい指の感覚やピアノで小さい音を加減するようなことはできなかった。加えて神経と一緒に筋肉も切れてしまっていたので、持続力が無い。リハビリは新しい段階に入って、腕の筋肉を鍛えること、それにもっと細かい作業のための訓練になっている。時々、もうすっかり直ったような気分になってこういうことをすると、痛い目にあうのだ。

急にやるから……でも、あまり時間がない。一通りウォーミングアップを済ませると、泉はレコーダのスイッチを入れて、端からリズムを載せてみた。初めの部分はそう難しくない。書いたとおりに叩くだけだし、細切れでもいいのでそんなにがんばる必要はないのだが、途中から泉ははたと行き詰ってしまった。シーケンサーよりはよほどいいが、やはり何かしっくりこない。アップダウンも怪しい自分の腕の問題も大きいが……

と、試行錯誤を始めたその時、泉は音楽室の重い扉が開くのに気づいた。

あ、と気づいた時にはもう遅かった。廉が入り口に立ってじっとこちらを見つめている
「廉さん……」
泉はライドの残音を消すために手でそれを掴んだ。どうして戻ってきたの? もしかして、電話を聞いたから? しかし、泉はそれを訊く事ができなかった。
「ごめんなさい。あなたのドラム、勝手に使っちゃって。どうしてもリズムがうまくのらなくて、自分でたたいてみようと思って……でも、私がやってもうまくいくはずないのにね。やっぱり誰かに頼むことにするわ」
泉は急いでスティックを元に戻し、ぶら下がった譜面をはずそうとした。

「はずすな」
廉が言った。
「やってみろよ」

やってみろってあなたの前で? 泉は首を振った。「いやよ」
椅子から立ちあがろうとすると、廉が傍までやって来て、チューナーのヘッドフォン出力をスピーカへ切り替えし、PCのシーケンサーを再生させた。曲が鳴りはじめる。

どうしても私にやらせようって言うのね。泉は仕方無くホルダーに戻したスティックをもう一度取った。自分がまともにできるのは入りから半分だけ。後はめちゃくちゃだ。
曲の真ん中まで泉はなんとか叩いてみせたが、その後はやめてしまった。曲だけが流れる。廉はスーツの上着だけ脱いで、腕組みしたまま壁にもたれて脇に置いてあったスコアを読んでいる。

「……へたくそ」
曲が終わると、廉がつぶやいた。

胸に言葉が突き刺さった。下手なのは本当だから仕方が無い。けど、私にそんな風に言わなくてもいいじゃない。プロじゃないんだし。とは思ったが、泉はそれでも言葉を飲み込んだ。勝手に彼のドラムを使わせてもらっている手前、そんなことが言えた義理でないことは良くわかっていた。

「これ……サンプリングでやるの?」
スコアにはそうメモ書きしてある。そんなことを廉が見逃すはずが無い。
「――いろいろ考えたけど、やっぱりその方があってるんじゃないかと思って」

「もう一回出して」
廉はスコアを始めのページに戻して言った。シーケンサーでリピートさせる。それを聞き終わると、廉は泉をどかせてドラムセットの前の椅子を調整し、練習用の靴を履いて今度は自分が座った。そして、出力をスピーカから再びヘッドフォンへ切り替え、泉にも別のヘッドフォンをつけさせた。


 廉がドラムの前に座るのはもう何度も見ているが、泉はそのたびに驚かされる。廉は基本的にはオールラウンドプレーヤーだ。本人はジャズが好きなのだろうが、Bドラの重いへヴィメタルもやるし、ロックはそつなくこなす。必要があればコンガもたたくしヴィヴラフォンからピアノまで鍵盤も使える。ポピュラーならスタジオミュージシャンとしても十分やっていけるくらいの腕前だ。しかし、自分が今日やろうとしているのはストリングスのたっぷり入ったオケ用の曲で、スコアには今までになくリズムセクションの楽器について細かく指示を入れてある。全体のバランスを考えると、少なくとも指示の入ったインとアウトはきちんと守ってもらう必要があった。そんな心配をよそに、廉は譜面どおり恐ろしいほど正確にハイハットを刻んでいく。まるでオケのリズム奏者のように。繊細かつ完全にコントロールされた音の粒が連なる。それはスイッチがオフになるまで永遠に続く、泉が望んだサンプリングマシンのようだった。

この人は……

自分のピアノはその道の人が聴けばすぐわかるくらいの下手だった。確かに努力すれば最低ラインの生活費を稼ぐくらいのプロにはなれただろう。けど、廉は違う。スタジオミュージシャンとしてプロになっていたら、多分その道では一流になっていた。間違いなく。廉の祖父の正一は自分の家は楽器屋なのに、そういう素養を持った人間が誰もいないと嘆いていたが、そんなことは無い。正一は廉がこれほどドラムをやることを知らなかったのだろうか。それとも、ピアノやヴァイオリンでなかったから、認められなかった? いずれにしても、廉がプロに引けをとらない腕を持っていることは間違いない。身体に刻まれている正確なリズム。めったに見られないが、たぶん普通ではないレベルのテクニックも持っている。長く聴いているとわかるが、だからこそ余計な手数は入れない。それなのに、思わぬところで入る凡人にはとても思いつかないようなフィル。計算しているのか無意識なのかわからない、絶妙なトリック。そして教則本にできるくらいの正確さ。ロングフィルインでなくても、単純なルーディメントで人を魅了してしまう。本当にうまい人しかできない技だ。泉はそんな廉を本当にうらやましく思った。

「そのままリピートさせて」

廉は曲が終わりまで来ると泉にそう言って、オケ用のサンプルに繰り返し自分のリズムを載せていった。泉が何度やってもうまく行かなかった部分がすらすら出来ていく。泉にはそれがすぐ結果となっているのがわかった。自分では思いつかなかった裏のリズムを廉が作ってくれている。泉が書いた基本のパターンを変化させながら、結局廉は10テイクを叩いた。

「……確かにサンプリングが合うかもしれないな。ストリングスが本物になったらもっと良くなる」
「ありがとう。廉さん」
泉は仮メロのサンプルの元になるデータとは言え、良い出来のものが録れたのがうれしかった。それに、他の人が首をかしげるような自分の考えも認めてもらえたようだ。しかし、廉はずっと無表情のまま、泉の方をちらと見ただけで譜面をはずして泉に返した。

「まだ、怒ってる……?」
廉の表情を窺う。どう見ても楽しそうには見えない。
「どうせ泊まらないって言うんだろ。今日は週末じゃないから」
「廉さん……」
泉はちょっとショックを受けた。

「廉さん。ね、こっち向いて」
泉はPCの前のスツールから立ち上がり、廉の頬に手をやって自分の方を向いてもらおうとしたが、廉は頭に手をやられるのを嫌がって首を振った。
「汗がつくぞ」
廉が言うのにかまわず、泉は廉の頭を自分の胸に抱きしめた。
「いいの。一緒にお風呂はいるから」
一瞬、自分の腕の中で廉が驚いたのがわかった。
「良くやったからご褒美?」
「そういうわけじゃないけど……」
一日だけ、彼と過ごそう。あとは何とか調整して……彼はきっと自分のために帰ってきてくれた。しかし、廉はそれが気に入らないようだった。
「労働の対価なら払ってもらえるわけだ。僕は君の心がほしいのに……」
廉の言いように泉は驚いた。抱えていた頭を腕から離して正面から見つめる。
「どうして……どうしてそんなこと言うの? 私があなたのこと好きじゃないみたいだわ」
「突然、思い出したみたいにそんなこと言うんだな……」
廉が顔を上げた。
「本当に……本当に好きならもっと……一緒にいたいって思わないのか。本当に愛してるなら……」
突然大きくなった廉の声に泉は驚いて身を引いた。
「――私がここに来ないから? でも、もうすぐ結婚するんでしょ? 私たち…」
「ああ。そうだな。予定では。けど、君はほんとに僕と結婚する気があるのか? ホテルもレストランも打ち合わせは延期、サロンにも行ってない。一体何をやってるんだ。今日、電話があったよ。かおりさんから。君に言ってもだめだからって、僕に。せめて週に一回は来させてくださいって。十月に入ってから一回も行ってないんだってな」
確かに、自分は紹介されたエステサロンにもうひと月ほど行っていない。学校と、病院と、仕事で目一杯だった。
「週末の約束も仕事が優先。今日だって、僕が早く帰ってこなかったら、もう帰るつもりだったんだろ。なのに君は他の男と食事する時間はあるんだ」
「廉さん……」
泉はその言葉に打ちのめされた。あの時のことを言っているのだ。
「あれは打ち合わせだったって言ったでしょう? 私、そんなに信用されてないの?」
「ああ。君は平気で嘘をつくからな」
泉は言葉を失った。

ひどいわ。廉さん……確かに以前、あなたに嘘をついたことはあったけれど……それは私たちがこうなる前のことだったじゃない。

「帰ります」
泉は自分の荷物を持って静かに部屋を出て行った。




 いっそ鍵も置いてくれば良かった。預かっている部屋の鍵。泉は自分の部屋で明かりもつけずにベッドの上で座っていた。

彼が怒っているのも、不機嫌なのもわかっていた。けれどその深さまではわかっていなかった。結婚式までにうまく全てをこなすために、いろいろ考えてやってきたつもりだった。廉が我慢することを前提にしていた部分もある……言っていないことはあるけれど、はなからそれは言わないことにしていた。彼に負い目をもって欲しくないから。それに、彼にしわ寄せが来たのは、ここに来て自分が無理やり仕事を入れたからだ。

 泉はがっくり肩を落とした。出来るだろうと思っていたが、できていなかった。自分は自分の事をこなすだけで精一杯で、結局、廉のことは後回しにしていた。それが、彼にわかってしまった。今日は本当に取り付く島もなかった。廉は時々すねることもあったが、今日ほどではない。泊まっていくと言っているのに、あんなふうにすねたままでいることは珍しかった。

大学と仕事、それに家庭……自分の優先順位はどれだろう。

泉は廉がこのまま自分から離れていってしまうのではないかと思った。もしかしたら、自分と婚約などしてしまったことを後悔しているのかもしれない。彼にはたくさん選択肢があったのに。自分でなくても良かったのに。

何度も涙をぬぐって泉は眠りについた。


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