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雪待月    3


 翌朝、目覚ましが鳴る前に目覚めた泉は、重い腕を伸ばして布団の中でそれを抱えた。ピリと鳴った途端、即座に止める。ベッドに自分の身体が沈んでいるような気がしていた。動けない? まるで病気にかかったかのように身体が重い。廉は泉の隣でまだ起きる気配もなかった。泉は気持ちを振り絞ってベッドから這い出るようにして起きだし、シャワーを浴びるために風呂場へ行った。裸の自分の身体を確認する。腰から下はまだ痺れるようで、しっかり自分で立っている感覚がない。鏡を見ると案の定、首筋の下のほうから胸にかけては、まるで花を散らしたように跡がついている。これでは医者に行けない。ざあざあと流れる湯の下で、泉は大きく息をついた。自分はどうするべきだったのだろう。彼のことをこんなに愛しているのに、自分にも彼にも素直になれない。廉を待たせ続けて不審を買っている自分と、本当は今すぐにでも廉のところへ行きたい自分。自分が守ろうとしていることは一体何……? 自分が廉のところへ行けば、こんなにめちゃくちゃなことをされることはないだろう。おそらく。けれど……

結局、自分は結婚するのが怖いのだ。自分が普通に生活出来なくなってしまうのを恐れている。学校と家と仕事……廉はそれまで週一回きてもらっている家政婦に、もう少し仕事をしてもらうと言っていた。多分、家のことはそれほど心配することは無いのかもしれない。けれど……

泉には廉に黙っていることが一つだけあった。廉が男に刺され、自分も腕に大きな怪我をしたあのときから、貧血がおさまらなくなっていた。あの時、あまりにもたくさん血液をいっぺんに失ってしまったショックで体質が変わってしまったのだろうと医者は言った。そもそも春先の入院が長引いたのはそのせいで、退院してからも、腕のリハビリだけでなく、血液成分を補う点滴を定期的に受け、投薬もしなければならなかった。医者にはしばらく通院で様子を見ましょうと言われているが、場合によっては脾臓を取る手術か専門病院での入院治療もあると脅かされている。夏には一度、その病院に三日ほど入院したのだが、廉にはそのことをずっと黙ってきた。自分のせいでそういう風になったと思って欲しくなかったのだ。

風呂を出て、泉は静かに食事の支度をした。食事と言っても簡単なものだ。自分だけなら食パン一枚で済ませるところだが、廉にはもう少しちゃんとしたものを食べていって欲しかった。

料理を始めてしばらくすると、廉が起きてきた。泉は廉のことなど存在しないかのように手を動かし続ける。
「泉……」
泉は黙っていた。昨日のことが許せなかった。廉が後ろから泉を抱きかかえ、その手を取って自分と向かい合わせになるように身体を回した。それでも泉は黙って横を向いた。
「……機嫌直して……昨日は……僕が悪かった」
廉の唇が泉のうなじを這う。ふと身体から立ち上る男の香りがした。
「――さっさと顔洗うかシャワー浴びるかして、着替えてください。お部屋に戻るなら、あんまり時間は無いですよ」
廉はこの狭い部屋に来ることがめったにないので、この部屋には、彼のものは最低限の着替えくらいしか置かれていない。
泉の冷たい態度に、廉は泉の顔を無理矢理自分の方へ向かせてめげずにキスをした。それも強烈なのを。泉はされるがままだったが、廉が泉を抱きしめて泉の耳元で「愛してる」とつぶやくと、泉もようやく肩の力を抜いた。
「愛してる?」
廉が訊ねると、泉はぷいと横を向いた。
「酷いことする人は嫌いです」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうに廉が言う。その手に促されて視線を戻すと、また頭を手で挟むようにして唇をついばんだ。
「ああ、君がかわいくて仕方が無い。誰の目にも触れさせたくない。できることなら君の時間を全部僕がもらいたい。家に連れて帰って閉じ込めておきたい。お願いだから、たまには僕のことが好きだって言って。このかわいい唇で」
ひげの伸びた頬が押し当てられ、泉の頭は抱え込まれた。ああ、もう彼の香りしかしない。
「廉さん……」
胸がきゅうと痛む。廉は本当にそう思っている。昨日イアンと一緒にいたのがそんなに嫌だったの……誰にも取られたくないって……誰にも取られるわけなんて無いのに……ごめんね、廉さん……泉は廉の首に腕をまわし、耳元でささやいた。
「私にはあなたしかいませんから……あなたが好きです。他の誰より」
廉はそれを聞いて安心したようにため息をつき、泉の身体をさらにきつく抱きしめた。




 その週末、泉は結局、廉のところへ行かないことにしたのだが、なかなかそれを言い出せずにいた。いつもは金曜日の夜から廉の家に泊まりに行って、月曜の朝は廉が学校へ送ってくれる。しかし、今週末はそうはいかなかった。どうしても週末の内に例のスコアをあげる必要がある。それなのに、まだ四分の一ほども白い部分が残っていて、とても週末に泊まりにいける状態ではない。次の週末までに、オケのサンプルを仕上げてエヴァレット社へ送らなければならないので、来週は学校が終わったらほとんどスタジオだ。そのせいでホテルとレストランの打ち合わせは延期にさせてもらった。ここまでは廉に了解を取ってある。しかし、泉はその次の週末から、ニューヨークへ行くと決めていたが、廉にはまだそれを言っていなかった。もう一つ具合の悪いことに、NYに行く前の金曜日は廉の誕生日だった。本当は金曜日は学校を休んで、昼間のうちにいろいろ準備をして、廉と楽しい週末を過ごす予定だった。やはりこの仕事、請けない方が良かったのかもしれない……廉に何と説明するか、泉は頭を悩ませていた。


木曜日の夜、泉は意を決して自分から廉に電話した。
「廉さん、私、今週末そちらに行けません」
「――なんで?」
廉が電話の向こうでむっとしているのがわかる。
「あの、仕事が忙しいんです。週末にどうしてもあげないといけない譜面があって」
「うちでやれば?」
「それも考えたんですけど、環境をそっちに移す時間も勿体ないんです」
「夜は? 夜だけでも来れば?」
「――うーん……ちょっと厳しいですね」
泉の煮え切らない様子に廉がぽつりと言った。
「来たくないのか」
「そんなことありません!」
泉は慌てて否定した。
「だったら、来ればいいじゃないか」
「――ごめんなさい」
今回はどうしても無理だ。週末に廉と会っていたら、きっと仕事が何も手につかなくなる。だから自分の部屋に来て欲しいとも言えない。それもわかっているのか、廉は黙りこんでしまった。
「あの……それで……もう一つ」
「何」
「来週の週末からニューヨークに行くことになりました」
無言のまま、しばらくして、廉が電話の向こうでため息をついたのがわかった。
「へぇ……それで、いつ戻ってくるの」
「5日の予定ですから、その次の週末には戻ってきます」
「――泉……僕たち、結婚するんだよ? わかってる?」
「結婚式までには、帰ってきてからあと三週間ありますから」
「――ああそう。わかった」
電話が切れた。

怒らせた。ああ、完全に怒らせた。泉は携帯を閉じて、顔を手で覆った。どうしよう……どうしたらいい? 泉はもう一度携帯を開いたが、思い直してまたそれを閉じた。今電話しても、何一つ言い訳できることなんて無い。

でも、これで本当におしまいにする。結婚式までにしないといけないことは、これで最後。USの仕事が済んだら、しばらくは仕事をしない。学校も休みに入る。もうちょっとだけ。あと少しだけ我慢してもらおう。ごめんね。廉さん。


次の日の夜、泉はもう一度廉に電話した。この週末に行けないことを謝って、少し話しがしたい。廉の声が聞きたかった。しかし、何度電話しても自動音声が「電波の届かないところにいるか、電源が入っていません」と返してくるだけだ。どこかに飲みに行っているのだろうとは思ったが、あまり深く考えたくなかった。廉は夜の遊びも良く知っている。

スコアの方はあれからかなり作業して九割出来になっている。あとはサンプリングするだけだ。安藤には水曜日から後にスタジオを取ってもらうよう言ってあったが、もっと早くしてもいいかもしれない。そして来週の金曜日は出来れば一日なんとか空けて、廉のために使えるようにしたかった。

 週末、泉はひたすらスコアを埋めていた。これでいいのかと疑いながらも、もはや白いところを埋めていく作業だ。キーボードで弾き、音をPCに読ませて録り、重ねていく。スコアもあがるが、サンプルの一歩手前のものもここで出来る。土曜日にはほぼ全部のスコアが埋まり、日曜日は一日かけて人前に出せるくらいまで調整した。ここで細かくチェックをしておかないと、出来上がった音がスカスカだったりする。そうすると、アレンジャーに頼んで手直しをしてもらわなければならなくなる。もともとアレンジャーを頼むつもりで書くのと、そのつもりでなかったのに頼むことになってしまうのとでは気分的に雲泥の差があった。自分でやるべき仕事が出来なかったと烙印を押されているようなものだ。今回はそんなことにならないようにしたい。泉は日曜日の夜、遅くまで試行錯誤を続けた。

十一時を回って、泉はその曲をようやく人前にだせるレベルまでにした。廉に電話しようかと思ったが、怒ったままの廉に何と言えばいいのか、考えもまとまらず、泉は結局その日、ただ風呂に入って眠りについた。
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