「さっきから、何回ため息ついたと思う?」
大学の昼休み。真紀の隣で自分で作ったお弁当を広げていた泉は驚いて振り返った。
「私、ため息なんてついてた?」
自分では全くそんなつもりはなかったのに。泉はお弁当の箸をひざに降ろした。
「それがため息でなくて何?何かあったの?」
昨日、アリオンにノートを置いてきてしまった。きっとあの男が持っているに違いない。
もちろん中を覗いただろう。大して弾けもしないくせにと思っただろうか。
泉は恥ずかしいのと同時に、非常に落ち込んでいた。
真紀が心配してくれているのはよくわかる。しかし、泉自身はまだ、一体何が不安なのか自分でもよくわからないのだ。
ノートを見られたぐらいのことは別にたいしたことではない。それより…
「そのうち話せると思う。まだ自分でもよくわからないの」
泉の心の中を察するように真紀は微笑んでうなずいた。
「わかった。話せるときが来たら話して。何かつらいのかと思っただけよ」
真紀はいつも優しい。自分より年下だなんて思えない。泉は安心してまた箸を持ち上げた。
泉がピアノを弾き始めたのは幼稚園に入る前だった。
音楽が好きで好きで、何を置いてもピアノの練習だけは休まなかった。しかし、高校生になった頃から、泉は自分の腕がプレーヤーとしてはやっていけない程度だということを感じ始めた。
目指すのなら本当は頂点を目指したい。けれど、自分にはその才能はない。
そう結論が出たとき、泉は音大への進学をあきらめた。だから総合大学の経済学部へ進んで、普通に就職したのだ。
就職した先は広告会社だった。そこでも泉はいろいろな音楽を媒体として流していく音楽メディアを扱う部門に行くことになった。
仕事を通じてアーティストたちが作る本当の音楽に触れるうち、泉は結局、最後は自分がそれをやりたいのだと気づかざるを得なかった。
自分の腕があろうがなかろうが、どうしてもできるところまでやってみたくなったのだ。
3年そこで働き、会社を辞め、半年練習だけに打ち込んで、泉は国立の芸術大学を受けた。
そこで受からなかったらもちろん諦めるつもりだったが、泉はそれなりの成績で合格してしまい、ほとんど7つも年下の生徒たちと一緒に大学に通うことになったのだった。
泉がこの大学に入りなおした時、小さな貿易商を営んでいた泉の父はすでに亡くなっていた。
だから泉は食べることも、学費も、すべて自分でまかなわなければならなかった。
音楽をやる学生にはありえないことだが、アルバイトも掛け持ちし、寝る間も惜しんで練習しなければならないような状況にも泉は耐えた。
耐えられると思っていた。
そうでなければ、それなりの給料をもらっていた会社を辞めてまで、わざわざ芸大に入りなおした意味がなくなってしまう。
自分は音楽の道へ進んではいけなかったのではないか。
泉の心の中には、その太い釘の先がもともと少しだけ刺さっていた。
時間がたつうちに、練習を重ねるうちに、忘れることができるほど、その痛みは小さくなっていた。
けれど、この間の夜、突然投げかけられたあの男の言葉は、大きなハンマーとなってその頭をたたいたのだ。
その釘は今や泉の心臓に深くささり、昼となく夜となく泉を苛んでいる。
泉自身が一番初めに感じていたことを、あの男はあらためて駄目押ししした。
そこで、泉はため息をついていたのだった。
自分には本当になにもない。
同じように大学に通っている普通の学生たちの生活を見ていると、自分がものすごく惨めになる。本当に泣きたいような気分になるのだ。
それでも、自分はこのままの生活を続けるしかない。いくら自分に才能がなくても、どんな貧しい生活をすることになっても、できるところまではやりとおさねば。
そうでなければ、また自分に納得しないまま音楽をやめることになってしまう。
こうして、時折思い出したように襲う不安を泉は再び振り払った。
「ねぇ、今夜はJで弾くんだっけ?」
真紀の声に泉ははっとした。
「あ、ええ。そうよ。あなたは今日は家で練習?」
「うん。そのつもり。でも、もしかしたら、出かけるかも。阿部先生が時間が空いたらレッスンしてくれ
るって言ってたから」
その返事に泉は真紀を凝視した。
「レッスンってどこで?阿部先生の家?」
「やだ、泉ったら。どうしてそんな目で見るの?別に変な関係じゃないわよ、私たち。先生はただ、見てくれるって言ったくれただけよ。阿部先生が私なんかを見てくれるなんて、こんなチャンスもうないかもしれないじゃない」
泉は口をつぐんで、それ以上、真紀には何も言わなかった。
心配しすぎだろうか?単純に喜んでいるのに、余計な事を言わないほうがいいのだろうか。
しかし以前、泉をしつこく誘っていた阿部の態度にはちょっと嫌な感じもあった。真紀はそんなことは感じていないらしいが。
「大丈夫。心配しないで。阿部先生はそんな人じゃないわよ」
真紀はそう言って、自分が食べ終わったクロワッサンの袋をたたんだ。
|