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 カデンツァ 第一章   


                        -9-


東京で今、一番勢いのある楽器店、蔵野楽器の本社は東銀座にあった。

大きなビルの谷間にカフェだの、飲み屋だのごちゃごちゃした店がたくさんあるところだ。

東京へ打って出たのは10年ほど前、それまでは横浜の駅近くでちょっと大きな楽器屋をやっていたのだが、父親の蔵野隆がどうしてもやりたくてはじめたのが東銀座の店だった。

しかし、さすがに東京ではビジネスはそううまくは運ばなかった。楽器店は他にもいろいろあったが、自分のところと比べてどう考えても戦略的にずっと成功してきたのは森嶋楽器のグループ子会社アリオンだった。

森嶋楽器は自分のところで超高級ピアノを製造販売しており、その高級感が楽器を習うという人々の心をくすぐるのだろう。

蔵野楽器は自分のところで楽器を作っているわけではなく、ただの販売業なので、そういう心理的効果は望むべくもない。

おまけに元の森嶋楽器は、レグノ・デリソーラなどという難しい名前のレコード会社を興し、そこそこのアーティストを抱えて一頃は大もうけしたらしい。

今ではレグノ・グループなるものを作って、一大事業体になっている。

努力のかけらさえ見えないアリオンが、ただ老舗の楽器店から出たと言うだけで比較されることが満にはたまらなく悔しいことだった。

堅実に何年かを過ごして、どうにか少し店を広げられそうな目処が立ったとき、蔵野隆はあっさり引退することに決めた。

自分よりビジネスに向いている息子の満に店を任せてみようと思ったのだ。

2年前、隆の後をついで取締役となった蔵野満は40になったばかりだったが、それからあれよあれよと言う間に沿線の主要駅に4箇所の新しい蔵野楽器を作った。

今まではターゲットが主に子供だったが、駅の近くに作るなら、それはサラリーマンやOLであるべきだった。

洗練されたカフェもつけて、ロビーには人が集まりやすい空間を作る。この店の作り方が功を奏して、蔵野楽器はあっという間に中堅の楽器屋からアリオンに継ぐ2番手に這い上がった。

そしてその勢いにのってベンチャー市場に上場した。おかげで小さいながらも資金の調達はやりやすくなった。

満はいずれこの東銀座のせせこましいところを抜け出して、有楽町の一等地に打って出るつもりだった。

昨年の終わりからずっと目をつけていた第2開発地区の一角をどうしても手に入れたい。そこで会社帰りのサラリーマンやOLたちをターゲットにした音楽教室や、音楽メディアの販売をやるのだ。

満が目をつけていたその第2開発地区は、他の楽器屋もたくさん来ることになっていて、おそらく楽器屋通りになるはずだった。

それも、ばらばらとあっちこっちに点在しているのではなく、まとまった場所になる。

同じ楽器を売るものも出てくるだろうし、そういう意味では店の特色を出す必要があった。

満は自分の店に絶対の自信を持っていたが、満がねらっていたブルーアクアという古いファッションビルの立っている土地は、アリオンも同じように目をつけているようだった。

この土地を持っている片岡不動産はなかなかのやり手で、競争相手がアリオンだとはっきり言った。

そうと聞いてはやはり手に入れるしかない。満はどうしてもアリオンに負けたくなかった。

土地の心配だけではなく、満はそこに入れるソフトの心配もしなければならなかった。教室を持つなら講師を用意しなければならない。

しかも、有楽町でやってもらうからには、東京グループの顔になってもらえるような一流の講師でなければならない。しかし、そういう講師は既にアリオンや他の楽器店でかなり良い条件で給料をもらっている。

満はその一流の講師たちをうまく引き抜くために、ハンティング専門の会社を頼んだ。

高い金を払うことになるが、本当に必要な人材を連れてきてもらえるのなら、それほどの投資ではない。

彼らは引抜をする先の会社に本当にもぐりこんで、実際にその人材の能力を確かめてからスカウトに入ると言った。もちろん、第一の矛先はアリオンだ。

アリオンは老舗ではあるが、もともとそれほど高い給料を講師たちに払っているわけではなかった。

ほとんど全員が契約社員かアルバイトだし、不満を持っている講師も大勢居るらしい。満にとってもっと都合のよいことに、アリオンは傾きかけていた。

今のレグノの会長、森嶋正一は大変なやり手だった。しかし正一が表舞台から引退し、今の社長の匡に代わって、森嶋楽器がレグノとアリオンに袂を分かつようになってから、アリオンの方はその勢いを失ってしまっていた。

バブルがはじけたこともあったが、持っていたビルをいくつか売り払っているし、また、今のアリオンの社長、鳴海礼子にも良い噂はなかった。

今年の春になってようやくコンサルを入れたと聞いていたが、本当に立て直せるか見ものだった。

店舗が減ったということは、今はねらい目なのだ。講師も生徒も。

傾きかけたアリオンに見切りをつける社員もたくさん居るに違いない。満はひとりほくそえんだ。