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 カデンツァ 第一章   


                        -8-


その日、廉がアリオンのオフィスを出たのは23時を回った頃だった。

結局彼女は戻ってこなかった。戻ってくることを望んでいた。そしたら何としてでも食事に誘って…

聞きたいことは山ほどある。あのノートの他にもあんなものがあるのか、ちゃんと曲にまとめたものがあるのか、この間のあの曲は結局どうしたのか。彼女の履歴書にはピアノ専攻とかかれてあったが

夕食も取らず、すっかり遅くなってしまった。A店で仕事をはじめたその日に、最終退出者になるとは。

廉はオフィスの鍵をかけ、ビルの1階にあるキーボックスに差し込んだ後、地下の駐車場に止めてあった自分の車で世田谷の自分のマンションへ戻った。

部屋に帰っても何にも食べる気になれない。廉はシャワーを浴びて、早く一杯やりたかった。

上着を脱いだところで、部屋の電話が鳴った。

「森嶋です」

「Ren. It's me.」

デイビッドだ。昨日まで廉とデイビッドはアリオン本社で一緒に仕事をしていたが、今日から廉がA店の方へ行くことになったため、デイビッドは本社で1人で仕事だったのだ。

言葉に問題があるデイビッドも大変だったに違いない。

「どうだった?今日は」

「ああ。何の問題もないよ。ユースケはすごく賢いし」

本田雄介は廉と一緒についてきた千葉と同期のレグノの社員で、英語が少しできるのでデイビッドの方につけられて、一緒に仕事をしている。

「おまえはどうだった?」

「これからいろいろありそうだね。まぁ、覚悟の上で行ってるんだから仕方がないよ。社員も講師も、ほとんど口には出さないが、憤懣やるかたなしってとこかな。それでもA店はまだ社員の首切りはないからマシなほうだと思ってるんだが。あと、講師もやっぱり心配してた。首切りされるんじゃないかって」

「なるほど、けど、契約形態の見直しの話もしたんだろ?」

「ああ。けど、インセンティブっていうのがどういうものか、あんまりよくわかってない講師もいるな。知ってるとは思うが、今まであまり金に困ったことがない連中も多いし、そういう意味ではちょっと世間の常識から外れてるというか」

「その意味はわかる」

デイビッドと廉はこのアリオンの経営建て直しコンサルのプロジェクトに入るまで、USで他の企業のコンサルをやっていた。

ハーヴェイ・スウェッソンは、廉にこの仕事をどうしても引き受けろとは言わなかった。

日本の市場でアリオンなど、もともと物流や販売を守備範囲にするハーヴェイ・スウェッソンにとっては対象外もいいところだ。

ただ、この経営再建計画の中には株式上場という計画も入っており、もしうまくいけば、それはハーヴェイ・スウェッソンにとっては新しい業種での上場事例となるはずだった。

また廉にとっても、戻らないと宣言したとは言うものの、数百人の社員を抱えるアリオンがつぶれるようなことはできれば考えたくなかった。

だから、こうして日本へ戻り、敢えて別の会社の社員のまま再建計画の一端を担うことにしたのだ。

「本部の方もまだ大変だろ。そっちは本当のリストラだしね」

デイビッドがフンと鼻をならした。

「ああ、だけどもう大きなところはほとんど終わってるからね。まぁ、一人になったら、後ろから刺されるかもしれないが」

確かにそうだ。二人は笑いあった。

「ああ、それから…」

廉は、昨日ピアノバーでピアノを弾いていた女性がA店で講師をやっていたことを話した。

「シャベッタ?」

「しゃべるも何も。彼女は僕のことはお気に召さないらしい」

それを聞いてデイビッドは大声で笑った。

「あたりまえだよ。だから言っただろ?いくら本当のことだって、言っていい時と悪い時があるさ」

「それは反省してる」

廉は口篭もった。ただあの時は、つい。

本当に彼女の演奏に、あの曲に引き込まれてしまったのだ。あんなことを言ってしまったが、なぜかあの曲には惹きつけられるものがあった。口にしたことに嘘はない。

「なんとかして取り返すよ」

「 It's fun. 」

デイビッドが笑ったのに廉は「見てろよ」と日本語で答えた。