泉の受け持ちのレッスンはその日、8時から始まるグループが最後だった。
このグループは男性が2人と女性が1人の、なかなか面白いメンバーである。
泉は彼らが話す会社での面白い出来事や、恋愛沙汰のおしゃべりに参加するのも好きだったし、音楽のジャンルにこだわらず、泉が決めた今週の一曲について語り合うの楽しみにしていた。
2時間のレッスンを終え、泉は生徒たちを送り出した。
がらんとした部屋で、泉はさっきまで生徒が座っていた椅子に座っておもむろにピアノを弾き始めた。
はじめは大学でつい、この間まで弾いていたシューマンで、それが一回うまく弾けた後は、昼間、ちょっと浮かんでいたフレーズを即興で繰り返した。
何度も繰り返すうち、だんだん前後が出来てくる。良い曲だと翌日もそれが頭に残ってまた続きが弾きたくなるのだ。
今日は頭の中には次々にアイデアが浮かぶ。
しかし、20分ほど経った頃、手首がうずいて耐えられなくなり、泉は弾くのをやめてしまった。
やっぱりお医者さんに行ったほうが良いかしら?
そんなことを考えながら、泉が鍵盤から視線を上げると、そこにはさっき講師たちに衝撃的な改革案を押し付けた森嶋が立っていた。
泉は驚いて譜面台に広げていたノートを閉じてふたの上に置き、ピアノカバーを手に取った。
「そんなにピアノが好きだとは」
森嶋の言ったことは泉には皮肉に聞こえた。
そんなにピアノが好きなのに、あの程度しか弾けないのか
と、本当は言いたいのだろうか?
昨日言われたことがずっと心に引っかかっている泉には森嶋がそう言っているように思えた。
「ここで働いているとは思わなかった。偶然というのは本当にあるんだな」
森嶋はにやりと笑って腕組みをしたまま泉の方へ近づいた。
「さっき、履歴書を見せてもらった。吉野泉さん。上野の大学の学生さんだったんだね」
そう言いながら森嶋は泉の左腕を突然つかみ、胸の高さに持っていった。そしてもう片方の手で、泉のシャツの袖をめくって手首にしたサポータをあらわにした。
「やっぱり」
森嶋がため息をついたのを見て、泉は慌てて取られた手を引っ込めた。
まるで悪いことをして見つかってしまった子供のような気分だ。
こうなってしまったことを彼にどうこう言うつもりは毛頭ない。泉は取り戻した手首をかばうように自分の胸に持っていった。
「医者には行った?」
心配そうに訊ねる森嶋に泉はかぶりを振った。
「それほど悪くありません」
どうしてわかったのだろう?袖から見えていたのだろうか?心配してくれているのかもしれないが、どうにも居心地が悪い。
さっき講師たちを敵に回すような発言をしたばかりの森嶋と、泉は一緒にいたくなかった。
「昨日、君を突き飛ばしたのは、うちの本部役員だ。彼らの尻拭いをするつもりはないが、お詫びをしよう。食事がまだなら一緒にどうですか?それとも一杯?」
一体何のつもり?泉は鋭い視線を森嶋に向けた。
その申し出に戸惑い、声には出さずに顔をしかめた。
「いいえ。今日はもう遅いので帰ります」
「じゃあ、明日」
森嶋がすかさず言った。
「明日はここへは来ません」
泉はいらいらしながらそばにあったピアノのふたを閉じてまわり、教室を出る準備をした。
この人、謝るつもりなのかと思ったら、ただ誘いたかっただけ?
「あのバーで仕事?」
「プライベートはお答えできません」
「デイビッドに言わせると、昨日、僕は大失言をしたらしい。根が正直だから。君が聞きたいだろうと思ってたことをつい、本気で答えてしまった」
聞いてもいないのに。泉はむっとしていた。
「君がもし、傷ついたって言うなら謝る。それも含めて、明日」
言い終えると森嶋は悪びれもせず微笑みかけた。どう反応したらよいのかわからない泉は、返事をせずに踵を返し、講師室へもどって行った。
ひとり教室に取り残された廉はふぅと大きくため息をついて苦笑いした。
聞いてないフリして帰っていったが、耳まで赤くなってた。一体年はいくつだろう。あんな細い腕でピアノを弾くなんて
さっき彼女の腕を取ったとき、あまりに軽くて驚いた。もちろん、しっかりしてはいたが。
そうしてふと我に帰って、廉はさっき彼女が弾いていたピアノの上にノートが置いてあるのに気づいた。
手に取って見るとそれは五線譜のノートで、さまざまなフレーズが色々な長さで書かれている。
どれも曲としては意味を成していない。多少長めのものもあるが、それでもせいぜい6段分ぐらいだ。
これは彼女のノートだろうか?フレーズを書きとめておくための
廉はページをめくった。
この間Jで聞いたあの曲がどこかに…
譜面の音をたどりながら、廉は次々にページをめくっていった……これか!
廉はピアノのふたを開け、そのまま譜面台にそれを置いて、ピアノの前に座った。
書かれたフレーズは昨日の曲そのままだ。
ああ。これだ。やっぱり。あの時、繰り返し出てきた初めのテーマがそこに書かれている。
しかし、それは彼女が実際に弾いていたよりずっと短く、本当にはじめの8小節分しかなかった。
たぶん、はじめに思い浮かんだときに書き留めたものだったんだろう。
廉はさらに何ページか別の音をたどった。まるで自分が古い譜面を発見した学者のような気分だ。
ここには彼女のアイデアが詰まっている。
彼女が忘れたのに気づいて取りに来るかも知れない…
そう思った廉は、しばらくそこで彼女を待った。そして待ちながら、そのノートに書かれているものに夢中になって端から弾いていった。
いままできいたことのないメロディーライン。心をひきつけるコード進行。
続きがどうなるか気になるじゃないか。これはまるで玉手箱だ。彼女はもしかしたら…
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