「はいはい。7時にインペリアルに行けばいいんでしょ。わかってます」
富田理恵は泉や真紀とおなじピアノ科の同級生だったが、決定的に違うのはその家柄だった。理恵の父親、富田一徳は私立音大の教授で、母親の信子もピアニストという生え抜きの音楽エリート一家である。
そして、理恵自身もいずれはピアニストになるべく、小さい頃から英才教育を受けてきた。
今日は音楽出版協会主催のパーティに行かなければならない。近く公演を控えている母の代わりに理恵が父と出席することになっていた。かかってきた電話は父の秘書の永田からだった。
「今どこって、美容室に決まってるでしょ」
理恵は乱暴に携帯を切って、美容室のスタッフが案内する奥の席へ向かった。
あの女、本当に頭がわるい。髪をセットし、メイクをして、あらかじめ家から届けられたドレスに袖を通す。母は最近、父と出席するパーティはほとんど理恵に代理出席させるようになった。
たまに母が一緒に行くこともあるが、母はパーティそのものにあまり興味がなく、いつも先に帰ってしまう。自分を出席させるのは、適当な結婚相手を見つけさせるためだ。
これまで一体何人の男を紹介されただろうか?そのうちの何人かは別の日にあらためて会ったりもしたが、先に発展させられるような相手はこれまでいなかった。まだ学生なのに、こんなに結婚を急がされるなんて。
理恵には実はその理由がなんとなくわかっていた。父と母は二人とも不倫している。だから自分がいると厄介なのだ。
今電話をかけてきた永田は父の愛人で、母の方は若いマネージャがその相手だ。自分がお嫁に行ったら、彼らはきっとすぐ離婚して自分たちの好きなようにするだろう。
だったらずっとあの家に居続けて、彼らを困らせてやろうか?以前はそんな考えもあった。
しかし、彼らのために自分の時間を使うのは馬鹿らしい。だから、理恵はたとえ父母のお膳立てだったとしても、また雑誌をめくるようにお見合いを続けてでも、相手を早く見つけて、家を出たいと思うようになっていた。
父親とインペリアルのロビーで合流した理恵は、永田を従えてパーティ会場へ向かった。永田はスーツこそ地味な紺だったが、真っ赤な口紅がてらてらしていやらしい。どうしてこんな女がいいんだろうか?
理恵はちらと永田を見てから、まるで彼女が存在しないかのように父の隣を歩いた。
会場に入って理恵は中をざっと見渡した。部屋こそ違うが、この会場の飾りつけの色違いパターンは以前に見たことがある。同じホテルだから、パーティの予算に合わせていくつかセットが用意されているのだろう。
まぶしいシャンデリアの下も、もしかしてセットでついてきたのかと思うほど見たことのある顔ばかりだ。
理恵は父親の隣でにこやかに知り合いに挨拶しながら、内心うんざりしていた。何組かの知り合いに挨拶をしているうち、父親の古い知り合いである音楽事業者協会の理事がやってきた。
今日はこの人かしら?
理事の後ろには30前後の整った顔立ちの男が控えていたが、彼はこちらには興味なさそうに横を向いていた。
私に初めから興味を示さないなんて、いったいどういう男?
「私の顔を立てると思って、お願いしますよ」
夕方遅く、突然かかってきた電話で、廉は父、匡の代わりにパーティに出席することになった。その会場のホテルで、匡の友人につかまった廉は、知り合いにどうしても紹介したいとせがまれた。
目指す人物のその後ろには若い女性が立っている。父の秘書である河部が廉についてきていたが、河部はどうもこの成り行きを初めから知っているようだ。
風邪で具合が悪くなったと言うので父の匡の代わりにここへやってきたのだが、これはしてやられたかもしれない。廉は河部を睨みつけながら、その父の友人に従って奥のテーブルへ向かった。
「こちらは西東京音楽大学の教授、富田さんです」
冨田のことは、廉がUSから帰国し、アリオンで仕事をするようになった後、何度か別の会合やパーティで見かけて知ってはいた。富田は音楽教育振興会の会長の座を狙っているというもっぱらのうわさだった。
「はじめまして。森嶋廉です」
差し出された手を取りながら富田がにこやかに言う。
「何度か、別のところでお見かけしました。米国のコンサル会社にいらっしゃったそうで。アリオンは優秀な後継者がいて安泰ですな」
誰が会社を継ぐかはまだ決まっていない。しかし、ここで下手なことは言うべきではない。たとえ自分にそのつもりがなくても。廉は口をつぐんだ。
「私の娘の理恵です」
富田は理恵を前に押し出した。
「はじめまして」
理恵はすっと伸びた背を上品に前にかがめた。
「理恵さんは芸大でピアノをやってるんだよ。3年生だったっけ?お母さんもピアニストだし、理恵さんのおじいさんは芸大の教授をされていたんだ」
理事はまるで釣書を読むように富田一家を紹介した。理恵が少し軽蔑するようなまなざしを向けたのを廉は見ていた。
「では、私はちょっと富田先生とお話があるのでこれで。廉君、理恵さんをお願いしますよ」
いきなりのお見合いモードに、廉はちょっと驚いて理事を凝視したが、理事はうまくやってくれというそぶりで富田を連れ、その場をあっという間に立ち去ってしまった。
残された廉と理恵はお互い顔を見合わせた。
「さて」
腕組みしながら廉は理恵の方に向き直った。
「あなたには本当に申し訳ないけれど、僕は今日、お見合いだとは知らないでここにつれてこられました」
「あら。私もです」
理恵は、そんなこと何の問題でもないという風に返事をした。
「僕はまだ、結婚する気はありません。だから、あなたの方からこの話を断っていただきたいんです」
理恵は顔をしかめて廉を見た。
「ずいぶん気の早い方ね。相手がどんな人間かも知らないでそんなこと言うんですか。私のことがはなからお気に召さないみたいだわ」
「そういうわけではないですが…」
廉は言葉を濁した。
「ただ、その気もないのに、お互い時間の無駄になりますから」
その言い切り様が理恵は気に入らないようだった。
「無駄になるかどうか、少しぐらい時間を与えて下さってもいいじゃありませんか?」
どうしてこんなに食い下がってくるんだろう?廉はちょっとうんざりしながら後をどうするか考えた。
「では何をお話しましょうか?」
あきれて訊ねると、理恵は、「話すことがないなら、ご自分の釣書でも口上して下さいな。私のはさっき理事がお話されたとおりです」と答えた。
その言いように廉は目を丸くして河部を見たが、河部の視線に促され、仕方がないので理恵をパーティ会場の脇のテーブルにエスコートした。
とにかくこの場は何とかしなければならないらしい。河部はそれを見届けてロビーへ下がって行った。
先に理恵を座らせた廉は、シャンパンの入ったグラスを二つ持ってきて、一つを理恵に渡した。
「もう20歳は超えてるよね?」
理恵は当然と言わんばかりにグラスを受け取った。そして乾杯もせずにぐいと一口飲んだ。
いったい何が不満なんだか。廉はその不遜でなまいきな態度に驚かされながら自分もグラスを口にした。
「お話しすることがないから釣書を口上なんて聞いたことないけど、それがお望みならお話しましょう。どこからがいいですか?小学校から?それとも幼稚園?」
意思の強そうな鋭い目。微笑んだ顔もなかなかいいわね。この顔だったら、どこのパーティに行っても他の女からうらやましがられること間違いなし。
だけどさっきは私を見ていなかった。私のことなど考える余地もないと言わんばかりだった。ここからよ。ここから。他の女に目をやらせないから。
「生まれたところから」
理恵は意味ありげに廉を見た。
それから廉は自分の生い立ちを語った。東京で生まれて、高校まで一貫教育の私学に通っていたこと。大学を卒業してアメリカに留学し、MBAを取ってUSのコンサル会社に就職したこと。最近日本に戻ってきたが、まだコンサル会社にいること。それに趣味はドラムをたたくことで、昔は空手もやっていたことなどなど、おおよそ一通りをさらった。
「それで、僕は君が望むような釣書の持ち主だったかい?」
廉は皮肉たっぷり訊ねたつもりだったが、理恵はくすっと笑い、
「本当にやるとは思わなかったわ。まぁ確かに、誰が聞いてもすばらしい経歴ですものね」
と言って、全く意に介さずテーブルの上のフルーツをつまんだ。その時、富田が永田をつれて二人のテーブルの方へ歩いてくるのが二人の視界に入ってきた。
「理恵。話がはずんでるようだね」
理恵の笑った顔を見ていた富田はそう思ったらしい。
「ここを失礼して別のところで夕食を取りにいこうと思うんだが」
理恵はそれを聞いて、突然厳しい顔になった。
「お父様がただけで行ってらして。私たちまだお話したいし。どうぞ、ご遠慮なく」
富田はそれを聞いて廉も一緒にどうかと誘ったが、理恵がかたくなにそれを拒否したため、富田は廉に娘を頼んでそこを去った。永田と二人で歩いていく後姿を理恵が苦々しく見ていたのを廉は見逃さなかった。
「さぁ、うるさい人たちは居なくなったし。私たちも楽しいところに行きましょ」
理恵は廉の腕を取って席を立たせた。
「これから?」
「もちろん、そうよ。あなた私より大分年上でしょ?子供みたいなこと言わないで」
廉の引き加減の様子に理恵はくぎをさした。パーティが終わったらJに行く予定だった廉は腕時計を見た。もう9時を回っている。しかし富田に頼まれた手前、理恵をほうっていくわけにもいかない。
廉はロビーにいる秘書に帰るよう話をしてくるからと言って理恵をテーブルに待たせて席を立った。会場を出た足で、ホテルのコンシェルジェに例のバーへ泉宛ての花を持っていってもらうよう頼んだ。
念を押すように明日と言ったのに、自分からそれを破ることになるなんて…廉はフロントでメッセージを書いて、コンシェルジェに渡した。
ロビーにいた河部がコンシェルジェと話をしている廉に気がついた。傍へやってきた時には話は終わっており、廉は河部にもう帰っていいと告げた。河部は「では私はこれで」と立ち去ろうとしたが、思い出したように振り返って言った。
「富田さまの奥様の父上は日本インベスター銀行の頭取です。間違いのないようにお願いしますよ」
河部のダークグレーのスーツの後姿を見おくりながら、廉は腕組みした。
そういうことだったのか。
今までにも、こんなお見合いのような席はあったが、父が選んだ相手はそれなりに金を持っている家ばかりだった。今回はどうしても理由がわからなかったのだ。
大学の教授くらいではそれほど稼いでいるとは思えない。体裁を保つのさえ窮する家もあるくらいだ。だからどうして今回に限って、富田の家の娘が連れてこられたのか、廉には理由がわからなかった。
しかし頭取とは恐れ入った。
父もだんだん欲が出てきたらしい。廉はこれから起こるであろう面倒なことを思い浮かべ、一人で苦笑いしながらパーティ会場へ戻った。
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