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 カデンツァ 第一章   


                        -12-


その夜、泉はなぜかいつもよりステージで緊張していた。理由はわかっている。あの男が来るかもしれないからだ。

今日、店に入るやいなや、「森嶋さんていう人から、あなたのステージの予定を教えて欲しいって夕方、電話があったわよ」と純子ママに言われたのだ。

昨日、あんなことを言って泉をどぎまぎさせた森嶋がまたここへやってくるかもしれない。そう思っただけで憂鬱だった。

憂鬱? 胸騒ぎ? なんとも形容しがたい落ち着かない感じがする。

下手だってわかってるなら見に来なければいいのに。これ以上自分の傷口を広げないで欲しい。この間言ったこと以上に、私に何か言いたいというのだろうか?

気にすまいと思っても、泉は森嶋がまた現れるのではないかという考えを捨てることができなかった。

しかし、9時のステージも、10時のステージも、森嶋は現れなかった。最後のステージの前に、フロアマネージャの佐伯が泉に花束と薄い封筒を渡した。

「私に?」

泉が怪訝そうに聞くと、佐伯は「上の花屋じゃない。ホテルの花屋がさっき持ってきた。その封筒も一緒に渡して欲しいって」と言った。

「泉ちゃんもなかなか隅におけないね。カードが中に入ってるよ」

佐伯にあいまいな微笑を返した泉は、封筒をテーブルの上に置いて、花束の中を覗いた。ピンクのバラの束の中に小さなメッセージカードが入っている。花びらを散らさないように慎重にそれを取り出す。

「今日は残念ながら行けなくなりました。あの曲はもう一度書きなおしたほうがいいと思います。真剣にあなたのことを考えている1ファンより」

心臓がどきんと鳴り、数秒間止まった。封筒の方は、自分がアリオンに忘れていったノートだった。

やっぱり

泉はため息をついて花束をカウンターに置き、最後のステージに向かった。




「いらっしゃい。先生。ここ、すぐにわかりました?」

「ああ。すぐわかったよ。大きな通りから1つ入ったところのマンションってここしか見えなかったしね」

阿部は茶色のジャケットにチノパンといういつもに比べるとラフな格好だった。

「一応、クーラーは入れてるけど、暑ければ上着脱いでください」
真紀はそう言って、阿部の上着を預かるようなしぐさをした。阿部は促されるまま、ジャケットを脱いで真紀に差し出した。

「どうぞ、こちらに]

真紀の部屋は、普通のマンションの1室だったが、ここに防音設備を後からつけたものだった。元々この部屋にはオーナーがいて、不動産屋に賃貸物件として出されていたのを真紀が借りたのだ。

「結構いい部屋だね。防音室は取ってつけたみたいだけど」

元からある部屋に無理やり押し込んだような防音室は確かにそんな風に見える。

「でしょう?ここ9階だから、意外と夜景もきれいなんですよ。ちょっと待っててくださいね。今、冷たいものを持ってきますから」

阿部はソファに座って真紀の部屋を見まわした。自分が座っている小さなソファセットがあるほうと、ベッドが置かれているほうは薄いレースの布を天井から斜めに張って仕切り、部屋を狭く見せない工夫をしている。

化粧品の瓶が並んだドレッサーは、いかにもおしゃれに気を使う女の子のものだった。

「ソフトドリンクはアイスコーヒーしかないんですけど。それとも、もうお酒でもいいですか?」
部屋の奥の小さなキッチンから真紀が顔をのぞかせる。

「僕はアルコールのほうがいいけど、君は後にしたほうがいいかもね。でも、僕も飲んじゃったらどうなるかわからないけど」

阿部は意味ありげに笑った。




最後のステージが終わって、帰りのがらがらの電車の中で、泉はもらった花束を見ながら、自分がどうしてこんなことに気持ちを振り回されているのか考えていた。

自分のピアノが下手なのは、はじめからわかっていたこと。

事あるごとにそれを思い知らされてきた泉には、他人から指摘されたこととは言え、仕方のないことだということはよくわかっている。それでもなお気になるのはなぜだろう。

曲を書き直す。

もちろん、この間はそんなつもりはなかった。けれど、書き直した方が良いと彼は言っている。

自分が作ったものに、手直しを加えた方が良いと思えるほどの何かがあるというのか。書き直すほどの価値が?

ばかばかしい。

泉は手にしていたカードをたたんだ。あの人はただ、クラブの女の子と同じように私を誘いたかっただけよ。こういうことを言って気を引こうとしてるだけ。花を贈ってくるなんてものすごく見え透いてる。

そう考えると泉は悲しくなった。水商売の店で働くことについて覚悟はしていたつもりだったが、いざこうしてホステスたちと同じ扱いを受けてみると、なんだか沈んだ気持ちになった。

あくまで遊びと割り切っての付き合い。男女の駆け引き。

母が知ったら、なんと言うだろか。泉は花をひざからよけて、疲れた身体を自分で抱えるように座りなおした。