2時間後、泉のクラスの生徒たちは意気投合して教室を出て行った。どうやら、初対面だが飲みに行こうということになったようだ。
続けて8時からの生徒たちのレッスンも済ませ、10時を回ってようやく一息ついたその時、泉は携帯が鳴っているのに気付いた。真紀だ!
「泉! ごめ〜ん。大丈夫だった?」
泉は携帯の電波が入りにくい教室を出た。
「真紀! 今、どこにいるの?」
「エーと、どこかな。たぶん渋谷の近く」
たぶんって、自分がどこにいるかわかってないのかしら?
「渋谷? こっちはちょっと大変なことになってるわよ」
「大変って…やっぱりまずかったかな」
ああ、全然自覚がない。これが真紀の悪いところだ。
「そりゃあ、まずいでしょう。次はちょっと覚悟してこないと」
「そうなんだ。あー。あのおばさん、怒ってた?」
温子のことである。
「ええ、かなり」
「怒ると怖いのよね。あの人。歯止めが利かなくなるから」
「そうね。でももう、どうしようもないじゃない。謝るしかないわ」
真紀の返事が返ってくるまで少し間があった。何か思うところがあるのだろう。
「そうだね。わかった。とりあえず、ありがと」
「うん。じゃ」
泉は真紀に詳しいことは訊かなかった。というより、訊けなかった。
予想ではたぶん、阿部と一緒にいる。しかしできれば、そんな恐ろしいことは聴きたくなかった。
大きなため息とともに携帯電話をパタンと閉じた泉は、廊下のかどから突然現れた森嶋に気づいて飛び上がりそうになった。
「石井さんは、渋谷にいるの?」
しまった、聞かれた! どうして今日はこうも都合の悪いことばかり起こるのか。森嶋は腕組みをして泉を斜めに見ながら立っていた。
「怒り方に問題はあるが、高梨さんの言うことももっともだ」
「すみませんでした。私のほうからよく言っておきますから」
森嶋の言うことは正しい。泉は頭を下げた。
「君が謝ることじゃない。それより…」
森嶋は泉の様子を見て、いいよどんだ。
「いや。いいんだ。今日はあんなことがあったけど、昨日より少し元気になったみたいだから」
泉は胸を締め付けられるような思いで森嶋を見上げた。私を心配してくれていた?
「今日はまだ仕事が残ってるんで行けないんだけど、ぜひ一度食事に。失礼なことはなるべく言わないようにするから」
森嶋は自分のあごに手をやりながら言った。その少し照れた様子がなんとなくかわいらしい。
「なるべく?」
怪訝そうな表情で森嶋を見上げる。
「あ、いや。絶対…? う〜ん、でもそれはどうかな…」
森嶋が正直に悩んでいる姿がおかしい。泉はくすくす笑い出した。
「だめ?」
泉が笑ったのを見て森嶋が訊ねた。
「ええ。じゃあ、近いうちに」
森嶋の表情がぱっと明るくなった。
一体、何人の女の人をこうやってくどいてきたんだろう?二枚目に笑顔が似合わないなんて嘘ね。
「スケジュールを確認したら電話する。番号は緊急連絡先のでいいんだよね?」
森嶋は泉がうなずくのを見て、スタッフルームに戻っていった。
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