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 カデンツァ 第一章   


                        -25-


金曜日、泉はJに早くから入って、明日の青山のレッスンのために入念に練習をした。

いくらピアノに才能がないと言われたとしても、自分はこれをやろうと思って大学に入ったわけだし、少なくとも卒業までは何とかピアノでやっていこうと決心したのだ。

だからと言って作曲の方をやらないつもりではなかった。もともと曲を作るのは好きでやっていたことだし、これが何かになるのならそれも良し。

自分を否定するのはやめようと泉は考えた。ただ、やはり自分はピアノ科でやっていく。

青山がなんと言おうが、できるところまでついていくつもりだった。


店が始まって最後のステージにあがったとき、泉はフロアにブレナーと森嶋が案内されてくるのを見た。

慌ててサマータイムのフレーズを4小節ほど飛ばしてしまったが、なんとかごまかしてしまった。

泉はここしばらく、最後のステージでも他のステージと同じようにジャズを弾いている。この間のことがトラウマになっていると言えばそうかもしれない。

そのステージを降りると、ブレナーが手招きして泉を呼んだので、泉はドレスのすそをつまんでステージから直接彼らのテーブルに向かった。

「いらっしゃいませ」

泉はドレスに躓かないようにゆっくり頭を下げた。

「イズミサン。アイタカッタ」

ブレナーは遊びなれている。きっと日本でもいろいろな接待を受けてきたに違いない。

「まぁ。お上手。きっと色々なお店に行かれてるんですね」

泉はそう言いながら森嶋を見た。

「今日、またいらしてくださるとは思いませんでした。でもいつも遅い時間ですね」

泉はブレナーに微笑み、二人の半分になったグラスの氷を足した。

「キョウハ、イズミサンニオネガイガアリマス」

「お願い?」

泉はブレナーと森嶋を交互に見た。森嶋は何を言うのか知らない風だったが、ブレナーはにっこり笑って英語でしゃべりだした。

「僕の妹のルーシーが日曜日に日本に来るんだけど、成田に迎えにいってもらえないだろうか?アルバイトで」

「ああ。その話か。忘れてた。誰か探していると言ってたっけ」

申し訳なさそうに、森嶋が頭をかいた。

「前に廉に頼んだんだけど、彼は最近君を追いかけるのに忙しいらしくて」

「うるさいよ。おまえ」

森嶋がブレナーをひじでつついた。

「日曜日、僕たちはお客さんとゴルフの予定が入ってるんだ」

「もちろん御礼はします」

「迎えに行けばいいんですか?私は車じゃないですけど、それでも?」

「それは大丈夫。ルーシーは日本の電車も楽しむと思うよ」

「わかりました」

こうして契約は簡単に交わされた。ルーシーを成田からブレナーの部屋まで案内する単純な仕事だ。

ブレナーは泉に自分の携帯の番号を教え、ルーシーの写真を泉の携帯メールに送った。そして、飛行機の便名などは後からメールすることにして、ひとりで先に帰ると言った。

たぶん気をつかったのだろう。森嶋にウインクし、ブレナーはそそくさとその場を去っていった。

泉の入れたウイスキーを森嶋が口にした。

「昨日…君に電話をしようかどうしようか迷った」

唐突な森嶋の言葉に泉は驚いたが、

「してくださればよかったのに」

と素直に答えた。

「簡単に言うね」

泉の返事に森嶋は不信そうな様子だった。疑ってる…私を。

「日曜日、ゴルフが済んだら、僕もデイビッドの部屋に行くから。その後、食事に行こう」

「はい」

いきなり本題に入った。油断ならない。自分が隙を見せると必ず攻めてくる。

泉は心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、目の前にあった水の入ったグラスを口にした。


「今日はこの後は?」

「終わったらすぐ部屋に戻って練習しないと。明日、怖い先生のレッスンがあるんです。私、ご存知の通り、出来が悪いからいつも叱られてばかりで」

「こんな時間から?」

「ええ」

誰に何を言われてもこの練習をサボるわけには行かない。人に惑わされて自分がやるべきことをやらないなんて、それこそこんな生活をしているのに本末転倒になってしまう。

「そんなに働かなきゃならないのか。君はアリオンでも20人ぐらいは生徒がいるんだろ?」

森嶋には理由が必要なのかもしれない。返事に躊躇するように一息入れて、泉は言った。

「そうですね。それぐらいいます。でも音楽やっていくには、結構お金がかかるんですよ。ただ、幸いにして私は学費だけは、働いていたときの貯金でなんとかなってるんです。だから、あとは生活費と、譜面買うお金ぐらいなんですけど。防音の部屋を借りてるので、それがちょっと高いかな」

「と言うことは、誰からも援助を受けてないってこと?」

「援助って?ああ、仕送りとか…」

フフフと泉は笑った。

「この話、長くなっちゃうわ。でも簡単に言うと、私、父がもういないので、誰にも頼ることはできないんです。母は田舎で一人で暮らしてますし」

森嶋の驚いたような顔。

そうなの。私はあなたみたいに、お金がたくさんもらえる会社に勤めてるわけじゃないの。

お金も時間もない。持たざるもの…

「フロアマネージャを呼んでもらえる?」

言いながら、廉は泉の腕にそっと手を添えた。泉は驚いて飛び上がりそうになった。

まるで店の女性にするようなこと…結局、私をそういう風に見てるのね。

「君をあんまり長い間、引き止めて置けないようだから」

泉が後ろを振り返って佐伯に合図すると、彼はすぐやってきた。

「誰か泉さんのお友達を呼んでもらえますか」

佐伯はちょっと考えて、みどりを呼びに行った。

そうして、泉は廉のテーブルから解放された。早く帰らなければと思ったが、みどりと他の女性たちが廉を囲んで楽しそうにしているのを見て、泉は少しさびしい気分で店を後にした。