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 カデンツァ 第一章   


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翌日のレッスンで、青山は泉の演奏を聞きながらずっと難しい顔をしていた。

昨日の夜中、課題はとりあえず一通り引っかからずに弾けるところまでにしていたから、この間のように怒らせることはないだろうと思ってはいたが、この不気味な静けさはなんだろう?

青山がこんなに何も言わないのもおかしな気がする。

泉は一度目を弾き終わって、青山が口を開くのを待った。

「高田先生のところには行ったか?」

自分の演奏の悪いところを指摘されるものとばかり思っていた泉は、驚いて青山をこわごわ見上げた。

「はい」

表情がこわばっているのに変わりはない。青山は後ろを向いて窓の方へゆっくり歩いた。

「それで、どうするつもりだ」

どうする?何を?

「あの。コンクールのお話ですか? それとも…作曲科へ変わるとかいう……」

「両方だ」

そういえば、報告しろと言っていたっけ。

泉は先週、呼び出された皆の前で打ちひしがれて教室を出たときの事を思い出した。

「コンクールは…あんまり自信はありませんけど、やってみようとは思っています。高田先生には手抜きするなと言われました。それから、作曲科へ変わるお話ですが…私は、できればこのままピアノ科にいたいと思います。先生が許してくださればですが」

青山は振り返って大きく頷いた。

「そうか」

心なしか、表情が和らいだように見える。

「ここにいるのに、私の許しがいるわけではない。ただ、こちらも手抜きは許さない」

「はい」

「君の特殊な事情はわかっているが、それは練習してこない理由にはならない。目的とそれを達成するための手段を逆にしてもらっては困る」

泉は青山が言いたいことが良くわかった。この間、青山を怒らせたのは、本当に自分が悪かった。練習していかなかったのだから。

今日、この間のようなことにならないのは、最低限のことができているからだ。

「先生についていけるように努力します」

青山は大きく頷いた。

「3ページ目の頭からもう一度」



夕方、泉は晴れ晴れとした気持ちでアリオンに入った。

これまでどう対応したらよいかわからなかった青山とは、少し気持ちが通じたような気がしたし、アリオンに来るまでに、課題の方も大分練習できた。

毎度、こんな感じにやっていけたらいいけど。アリオンのレッスンもその前向きな気持ちからか、生徒たちとの会話が弾んだ。


その夜の最後の生徒は、先週、個人レッスンをしたいと言った小澤だった。

その前のグループが終わる10分前には、レッスン室のガラスの扉の外に姿が見えていた。

「小澤さん、どうぞ」

グループの生徒たちを送り出し、小澤を招きいれて、泉は隣のピアノの椅子に座った。

「何をされるか決まりました?」

小澤がかばんから譜面を出すのを見ながら泉が訊ねる。

「ええ。いろいろ目移りしてしまって大変です。でも一応、基礎はもう一度ハノンから。ソナチネもできれば。それにこれ」

小澤が差し出したのは『スタンダードジャズ』という本だった。

泉はその本をぱらぱらめくりながらレベルのチェックをした。小澤がどの程度基礎ができているかわからないが、この本はちょっと小澤にはレベルが高いかもしれない。

「なるほど。この本の中で何か特に弾きたいものがありますか?」

「ええと。やるならこれでしょうか」

小澤は譜面を手にとってあるページを差し出して泉に差し出した。

「ワルツ・フォー・デビイ…うーん。これはまた手ごわい。ビル・エヴァンス、お好きなんですか?」

「ええ、結構。暗いって言われるんですけど」

泉はくすっと笑った。

「わかりました。ちょっと難しいですけど、毎週、1小節でも2小節でも弾けるようにしていきましょう。意外とあっという間に最後まで行きますよ。一応、ソナチネとハノンということだと、しっかり基礎もやるということになりますけど、小澤さんはお仕事もしていらっしゃるでしょうから、別に全部の課題を一週間でやってきていただくことはありません。好きなのを1つだけでもいいです。ただ、ハノンだけはやってきてもやってきていなくても、一度は教室で弾くことにしましょう。指の練習になりますから」

泉はハノンからレッスンを始めた。

9時30分を回って、泉がもうそろそろ終わりにしようとしたとき、小澤が「できれば」と言って泉に「ワルツ・フォー・デビイ」をリクエストした。

小澤の参考になればと思い、泉は小澤に譜めくりを頼んでピアノを弾き始めた。



ワルツ・フォー・デヴィを弾き終わってもなおしばらく、泉と小澤は自分たちの好きなジャズピアニストについて話し込んでいた。

小澤はスタンダードジャズについては相当知識が深い。まだピアノを始めたばかりだが、本当はサックスもやりたいのだと小澤は言った。

泉がここにもいい先生がたくさんいるのでと言いかけたとき、突然、レッスン室のドアが開いた。


「すみませんが、そろそろ閉館です」

森嶋だった。

その姿を見て、泉は「あ、すみません」と言って片付けを始めた。確かに10分ほど過ぎている。いつもなら別に何も言われない時間だけど…

そして、「じゃあ、来週またお待ちしてます」と言って小澤は部屋を出て行った。

小澤は廉にもちょっと会釈して出て行ったが、その目が決して笑っていないことを泉は見ていた。

小澤が出て行った後で、泉はばたばたと片づけを続けて「すみません、すぐ出ます」と言った。

早く出て行って欲しいと彼が言ったのだ。

森嶋が扉のところで大きく息を吐いたのが聴こえた。

一体何?泉はちくちく刺さるような視線を背中に感じながら、森嶋の脇を避けるように扉に手をかけた。

その途端、森嶋の手が泉の腕を掴んだ。泉はおどろいて思わずかばんを下に落としてしまった。

「あの…」

「ここはピアノバーじゃない。講師が必要以上のことをして誤解を招くようなことをしないでほしい」
泉は顔をしかめた。

「それは…どういうことですか?」

森嶋はむっとした様子で泉をにらんでいる。

「説明が必要なほど、若くもないだろう」

どういうこと?

森嶋は泉がまだそこにいるにも関わらず、乱暴に明かりを消して部屋を出てスタッフルームに戻って行った。



一体、何だと言うの? あんな言い方って…

泉は真っ暗になったレッスンルームに一人取り残されて、ふつふつと沸いてくる嫌な気分を何とか抑えようとした。

森嶋の言うことを額面どおりに受け取れば、生徒に時間を超えてレッスンする必要もないし、模範演奏する必要もないということだ。

けれど、本当に彼が怒っていたのは多分そういうことではない。私が小澤さんといるのが気に入らなかったのだ。

泉にははっきりそれがわかっていた。

もしかしたら、彼と付き合うことになるのかもしれない。

ここ数日、泉は考えていた。どういうわけか毎日顔をあわせているし、その度に心を何かにつかまれているような感じがしてしまう。けれど…

泉は後のことを考えるのをやめてアリオンを出た。