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 カデンツァ 第一章   


                        -28-


日曜日、泉は珍しく朝寝坊した。休みの日でも泉は普段と変わらない時間に起きるのだが、昨日はなぜか、いろいろなことが頭をよぎって眠れなかったのだ。

森嶋が自分のことを気にしてくれている。それも、もう隠そうとはしていない。

昨日電話をもらった時、はじめ泉は怒っていた。けれど、言いたい放題言ってるうちに、森嶋が気持ちを見せてくれた。そんなつもりではなかったのかもしれない。

気持ちを見せてくれたというより、私に合わせてくれただけなのかもしれないけれど。

それでもいい。泉は幸せだった。

ルーシーはサンフランシスコからのUA機で14時に成田につく予定だった。

泉は念のためデイビッドに言って、成田の出口を出たら、動かないでその場所にいるように伝えてもらっていた。出口が2つあるので、間違えそうだったからである。

飛行機が来る予定の1時間前から泉はその場所にいた。ルーシーの乗っている飛行機は定刻より10分早く成田に着いた。

その後、荷物をピックアップして入国審査と税関を通ってくるから、30分ぐらいかかるだろうか。

泉はスタンドで買ったコーヒーを飲みながら、のんびりルーシーが出てくるのを待っていた。

ルーシー・ブレナーと大きく名前を書いた紙は持ってきたが、それを出すのはもう少し後でもいいはずだ。

しかし、30分たっても、1時間たっても、ルーシーは出てこなかった。

飛行機は間違いなく到着している。泉はだんだん心配になってきた。

迷子になっているのだろうか?

泉が迎えに来ていることはもちろんデイビッドから伝わっているはずだった。だから、ひとりで東京に行くことはまず考えられない。

泉はインフォメーションに行って、アナウンスしてもらうことにした。

2度目の呼び出しを出口のところで聞いていたとき、泉はまさにその出口からルーシーが出てくるのを見つけた。

「Miss.Brenner!」

ルーシーが声のするほうを探している。長い誘導のテープを回り込んで、泉はルーシーに駆け寄った。

携帯の写真の通り、淡い肩までの金髪の巻き毛で、ブルーグレーの瞳。デイビッドに良く似ている。

ルーシーも泉の姿を見て、それが泉だとわかったようだったが、なんだか様子が変だった。

「吉野泉です。どうしたの?どこか具合が悪いの?」

「いいえ。違うの。荷物がなくなっちゃって」

「ええ?」

荷物が無くなった?ルーシーはがっくりしていた。

「遅くなってごめんなさい。アナウンスは聞きました。手続きに時間がかかったの。スーツケースは見つかったら、兄の所へ送ってくれるそうだけど、少し日用品を買わないと。」

「なるほど。そうね。あとでショッピングモールに連れて行ってあげる。でも先に東京に移動したほうがいいわ」

泉はそう言ってリムジンバスの切符を買い、ルーシーと一緒に外の乗り場に並んだ。彼女がなかなか出てこなかったので、あらかじめ買っていた電車の切符は払い戻ししてしまったのだ。

それから渋谷まで1時間半。ルーシーは少し元気を取り戻したようで、バスから見えるいろいろな風景や、日本の習慣などについて話をした。

渋谷でバスを降りると、泉は百貨店の中にルーシーを案内して、着る物と下着、それに化粧品を少し見て回った。女の子はいつでもそうだが、こういうものを買うときはちょっと楽しい。

ルーシーは疲れを知らず、百貨店中で日本の女性向けに作られた質の良い、凝ったデザインのものを大量に目の前にして、あれこれ目移りするようだった。

まだ21になったばかりと聞いているし、それは当然かもしれない。泉はまるで妹と買い物するように、一緒にそれを楽しんだ。

表参道のデイビッドのマンションに着いた時には既に5時を回っていた。デイビッドには百貨店に入る前に、買い物をしていくからとメールしておいたので、少し遅くなることは伝えている。

森嶋も来ているはず……泉はマンション入り口のインターホンで呼び出しをしながらそんなことを考えていた。

デイビッドがマンションのセキュリティを解除し、二人は8階の部屋に向かった。部屋の扉の呼び出しベルはルーシーが押した。

「Hi,David!」

玄関に顔を出したデイビッドはルーシーを抱きしめ、泉と一緒に中に招き入れた。

都内の高級マンションってこういうところを言うのだわ。泉は高級ホテルのロビーにおいてあるような調度品を眺めながらサンダルを脱いだ。

これだけはさすがに日本人向けになっている。ふかふかのスリッパに足を入れているとき、廊下の向こうの部屋から森嶋の顔が覗いた。

泉が小さく会釈すると、森嶋はうれしそうに笑った。

「いらっしゃい」

「Wooow,Reeee-n! How are you!」

ルーシーが森嶋に飛びついてキスした。森嶋はちょっと驚いて泉に目配せしたが、泉はそんなことは何にも気にしていなかった。

「ルーシー、ほどほどにしておけよ。泉さんは廉の恋人だよ」

デイビッドの言葉に驚いたのは泉だけではなかった。

「そんなこと言ってないだろ?」

「それじゃ、まだ彼女をストーキングしてるの?情けない」

「...What you saying..」

森嶋がデイビッドの首をつかんで締め上げる。

デイビッドは思いっきり外国なまりの日本語で「ヤメテェ、タスケテェ」と叫んだ。


その後、結局泉はデイビッド、ルーシー、森嶋と連れ立ってマンションのすぐ近くのイタリアンレストランに食事に出かけた。

友達どうしの3人に悪いような気がして泉は帰ると言ったが、デイビッドもルーシーもそれを許さなかった。

レストランで泉は彼らのことを少し知った。デイビッドと森嶋はアメリカの大学のときからの友人。

二人にはまだ他にも共通の日本人の友人がいるらしく、お盆の頃には彼らと会うようなことを言っていた。

今回のルーシーの旅行は、初めての海外ということで、両親が日本ならデイビッドもいるからということでようやく許可したということだった。

デイビッドは「熱い夏になりそうで、気が抜けない」と言って、うなだれている。

レストランの食事代はデイビッドと森嶋が払った。ワインもあけていたが、廉は車だからと言って、一切口をつけていなかった。

泉は自分の分は払うと言ったが、「学生さんから取るわけにいかないよ」と言って、彼らは取り合わなかった。

泉はほんの少し飲んだワインも手伝ってか、あまり深く考えもせず、それ以上は言わなかった。

帰る間際、泉はデイビッドから封筒を手渡された。

「今日のアルバイト代です」

泉はただ迎えに行っただけのことで、食事までおごってもらって、お金をもらうことに気が引けて、「それはやっぱり結構です」と口にしたが、デイビッドはそれを許さなかった。

「だって、彼が見てるから」

泉に耳打ちして、デイビッドは森嶋の方を見た。

「何だよ」

森嶋がまたデイビッドの首を絞めた。

「ボウリョクハンタイィィィィ」

デイビッドのなまった日本語が街中に響いた。



デイビッドとルーシーは自分たちの部屋へ戻っていった。森嶋は泉に「近くに車を止めてある。家まで送っていく」と言った。

「うち、入谷ですよ?森嶋さん、おうちはどちらですか?」

森嶋は絶対この近くに住んでいる。泉はそう確信していた。自分の部屋とはたぶん正反対の方向なのだ。

「僕の部屋は世田谷だけど、君のために飲まなかったんだから、送るぐらいさせてくれたっていいだろ?」

「森嶋さん…」

どこまで本当かわからないが、飲んでなかったのは確かだ。

「二人でいる時に森嶋さんって呼ぶのはやめてくれ。僕の友達はみんな僕のことを廉って呼ぶんだ」

泉は黙ってしまった。なんだか気まずい雰囲気だ。

どうしようと思っていると、森嶋が泉の手を取って歩き出した。