廉の手は大きくて暖かだ。30を過ぎた男性がこういうことするということに、泉は驚きながらもちょっと感動した。男の人にこんな風に手を取られて歩くなんて、一体何年ぶり…
彼は振り返らなかったが、泉は心を躍らせながらついて歩いた。そして駐車場まで来ると、廉は車の助手席側のドアを開けて泉を座らせ、反対側に回って、自分は運転席におさまった。
車が走り出すと、ヨーヨー・マが流れ始めた。
「ヨーヨー・マ、お好きなんですか?」
泉が訊くと、廉がうなずいた。
「うん。クラシックばっかり聞いてるわけでもないけどね。ヨーヨー・マはハズレがない」
夜の街の明かりと、チェロの深い音がマッチして、泉はいい気分だった。それに隣に森嶋がいる。
泉は森嶋に初めて会ってから、まだ2週間しか経っていないのが不思議な気がした。どういうわけか、もう何ヶ月も一緒にいるような気がしてしまうのだ。
恋に落ちるその瞬間は突然やってくるものだ。
彼は自分の顔を見て微笑んだり、他の男性と一緒にいて怒ったり、手を取って歩いたり、自分に対してだけのわがままを言ったりして私の心を揺さぶり続けているが、一体どこまで本気なのだろう?
泉は森嶋の顔をじっと見た。
「なに?」
森嶋が一瞬、視線を泉に置いた。
「……いいえ。何でもありません」
また泉の方を振り返る。
「僕に、告白したくなった?」
森嶋はにやっとわらって、ハンドルに置いていた片手で泉の手を取った。全くこの人は…
「森嶋…あっ…と…廉さん?」
「フルネームで呼ばなくてもいいよ」
くすっと笑った森嶋は泉の手をもて遊んだ。なんだかはずかしい。泉はそれでも、森嶋のしたいようにさせた。
入谷の泉のアパートの前まで来て、森嶋は車を止めた。
「部屋は何階?」
「1階の3号室です。あの真ん中の部屋」
泉は右から3番目の明かりのついていない窓の隣のドアを指した。
「僕が下心満載なのはわかってると思うけど…」
森嶋は結局ここにつくまで泉の手を放さなかった。
「今日は、部屋に返すことにする。初めからあんまりやりすぎて君に嫌われたくない」
車を止めた森嶋は、泉の手をあらためて両手で取った。そして泉の顔をじっと見ていたが、しばらくして泉の頬に手をやろうとした。
泉は一瞬びくっとして、森嶋の手を少し怖がるようなそぶりで下を向いてしまった。森嶋の手は頬には触れていない。
「顔を見せて。明日は会えないだろ?」
この人は、本当に私に興味があると言うの? こんなことを言うなんて。
泉は顔を上げて森嶋の瞳を見つめ返した。数秒間の沈黙……
「おやすみ」
森嶋がやっと泉の手を放した。
「おやすみなさい」
ドアを開けて、泉は車を降りた。
森嶋が去った後、泉は部屋に戻ったが、靴を脱いだ途端、玄関の冷たい廊下に座り込んでしまった。
一体、どうしてしまったというのだろう。急にこんなことになるなんて。
泉は自分が舞い上がってしまっているのが良くわかっていた。
彼が何か言うたび、身体のどこかに触れるたび、心臓が悲鳴をあげそうだった。
本気で私を…?
泉はにわかに信じられなかった。
そもそも、彼が自分に興味を持つ理由がわからない。私はただの貧乏学生で、夜の銀座でラウンジプレイヤーをやっているような身だ。
まさか。やっぱり、そんなことはありえない。
これはただの恋愛ごっこだ。森嶋が自分をからかっているとは思わないが、真剣に愛だの恋だの言うほどのことではない。銀座で働いている女性たちにするのと同じ。
あまりこのことを深く考えるのはやめよう。と泉は思った。
気持ちを引きずられないようにしなければ。先のことはわからないが、もし傷くようなことになっても、感傷に浸っていられるほどの余裕は自分にない。
泉はため息を一つついて、ようやく立ち上がった。
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