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 カデンツァ 第一章   


                        -3-


彼らの席はピアニストの目の前、もっとも音がバランスよく聞こえるところだった。久志はここへ何度か来たことがあり、店の女性の感じが皆良いので気に入っているらしかった。

「いや廉君。やるね、君。亡くなった兄が、ずっと昔に君が柔道をやってるって言ってたのを思い出したよ。でも形だって聞いてたような…」

典弘がさっきの出来事を面白そうに言った。

「そうですよ。僕のはこけおどし。でもちゃんと技はかけられます。素人相手ならね」

「You said , you are fake?(うそだっていうの?)」

デイビッドが不思議そうに尋ねた。

「Oh, You don't know that. I'm exactly fake.(知らなかったの?そうだよ)」

「ウソデショウ?」

デイビッドの不思議な日本語が皆を笑わせた。

さっきのことを申し訳なく思っているママの純子は、この店のNo.1のみどりとともに廉たちのテーブルにずっとついている。おまけにお礼にと言って、純子はモエを1本彼らにプレゼントしてくれた。

「ところで、礼子さんのことだが…」

典弘は廉に切り出した。

「できることなら、君からおじいさんに頼んでもらって、アリオンの経理から一旦手を引いてもらうようにはしてもらえないだろうか。もう知ってると思うが、こちらがいくら正しいもので管理していても、彼女が最後に手を加えて全く別のものになってしまう。今まで何度もその事で彼女とけんかしたんだが、どうしてもわかってもらえなかった。レグノと規模は比べ物にならないが、うちにも200人からの従業員がいる。彼らは守っていかなければならないんでね」

典弘は真剣だった。

「叔父さんが言いたいことは良くわかっています。僕も目をつぶる段階はとっくに過ぎたかと思います。叔母がやってることは見る人が見れば背信行為ですから。ただ、もう少しだけ待ってください。僕も証拠を集める必要があるので」

「私はできることは協力するつもりだ。会社を絶対につぶすわけにはいかない。君の叔母上をそんな風に言いたくないが、君がアリオンに来ないなら、礼子さんと刺し違えるつもりだった。今でもそのつもりだ。もちろん、元々アリオンは森嶋の会社だし、私たちがどうこう出来る立場ではないことは良くわかっている。だが社員は……彼らにも生活がある」

この叔父は自分とは全く血はつながっていないが、アリオンで働く人間を非常に大切に考えている。それは亡くなった礼子の夫、鳴海義一もそうだった。

しかし、それほどまでにひどいのか…

廉は自分がこちらへ戻ってくるまでに、どうして父親も祖父も手を下さなかったのか、自分の一族を非常にふがいなく思った。

「叔父さんにこんなに迷惑をかけて申し訳なく思います。叔母の件は祖父と相談して近いうちに僕の方でなんとかしますから」

「すまんな。本当は君を巻き込みたくなかった。義一から、君は家を継がないといって出て行ったと聞かされていたのに…」

典弘は誠実な人柄だ。立場上、彼らに出来ることは限られている。しかし、自分がアリオンを立て直したらその後は彼らに任せてもいい。廉はみどりが入れてくれたロックのブランソンを一口飲んだ。

ピアノのステージが始まった。さっきの彼女だ。廉はしばらく彼女の弾くのを静かに聴いていたが、だんだん落ち着かない気分になってきた。その曲はさっき廉が拾った手書きの譜面の曲だった。

一体これは誰の曲だ。映画音楽のようだが、初めて聞く。

ピアノは決してうまくないのに、そのフレーズやコードラインが妙に引っかかる。廉はデイビッドが話しかけてきたのにもうわのそらだった。

まさか、彼女が自分で書いた…?

ステージが終わり、廉が久志と話をしているうちにピアニストはステージを降りてしまった。途中の展開部分はあまりいただけなかったが、ABラインはすばらしい。

もし彼女が自分で書いたものだとしたら…

廉は手洗いに立った。頭の中でさっきの曲がぐるぐる回っている。この疑問をどうにかしなければ。

廉は戻ってくる道すがら、店の中を見回して彼女を探した。

ふと気づくと、そのピアニストが店の入り口近くのカウンターでデイビッドと話をしている。何て手の早いやつ!廉は二人にそっと近寄った。

「ダイジョウブデスカ? サッキハゴメンナサイ」

青い瞳がつたない日本語で言った。

「ええ、大丈夫です。どうもありがとうございます」

ピアニストがにこやかに答えた。

「毎晩ここで弾いてるんですか」

「いいえ。週に2回、水曜と金曜です」

彼女はよどみなく英語で答えた。言葉はどこで覚えたのだろう?

「すごく久しぶりにこういうところに来たんです」

「楽しんでいただけました?」

暗い店内で黒いドレスのピアニストの胸元がまばゆく輝いている。宝石もつけていないのに、この美しさときたら…廉はカウンターの端で舌打ちしそうになった。

「次で終わりですか?終わったら僕たちと…」

ブレナーが自分の名刺を差し出した。

「David! 」

廉は思わずデイビッドを呼んだ。デイビッドは振り返りながらも自分の名刺をピアニストの手の中に無理やり押し込んだ。

「オナマエハ?」

にこやかに訊ねたデイビッドにピアニストは微笑んだ。

「吉野泉です」

「イズミサン。ワタシハデイビッド・ブレナートモウシマス。メイシ、ワタシマシタネ。カレハ『レン』デス。イズミサンハココノピアニスト?」

デイビッドは一所懸命日本語で話した。発音がちょっとおかしい。

「いいえ。ここはアルバイトなんです」

「ガクセイ?」

「ええ。ちょっと、年はとってますけど。」

彼女は苦笑しながら答えた。

「Misic college?」

「ええ。まぁ」

彼女はプライベートなことをはなすのは嫌なようだ。けれど、あのことだけは…

廉はデイビッドと彼女の間に割って入った。

「ここはジャズをやる店って聞いてたけど、ああいうものもやるんだね」

廉はさっきの曲のことを口にした。

「ええ。お客様の少ないときだけ。いかがでしたか?」

ピアニストが廉の方を振り返り、にこやかに聞き返した。いかがでしたか? それはつまり…

「あれは君が書いたの?」

その言葉に彼女は一瞬、目を大きく見開いた。やはりそうか。廉は彼女を驚かせるつもりはなったが、どうしても聞かずにはいられない。

「きれいな曲だ。導入部もその後も期待を持たせる。たが、10分もの曲にしては展開部が何か物足りない。アレンジの問題か?それとも腕か」

ピアニストに浮かんだ怪訝そうな表情。廉は自分が感じたことを正直に言い過ぎたのを後悔した。

「What are you saying, Ren?」

廉の言葉を取り繕うようにデイビッドが言った。

「ああ。いや、別に…」

廉はしらっとして言ったが、彼女はうろたえているようだった。表情を表に出さないようにしているのがよくわかった。

「すみませんが、失礼します」彼女は小さく会釈し、カウンターから離れた。声が震えていた。


「You're busterd!」

デイビッドが毒づいた。

「なに?」

「ジャマシタ。ヨケーナコトイッタ」

珍しくデイビッドが怒っている。さっきの会話がわかったのだろうか。

廉はおかしくなって笑ったが、

「オカシクナ〜イ!」デイビッドが叫んだ。