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 カデンツァ 第一章   


                        -4-


「あーあ。ピアニストが。どうしたの?それ」

昼休み、7つも下の同級生、南博久がファーストフードで買ってきたポテトフライをかじりながら泉に訊ねた。手首に大学の購買で買ったシップを巻いてサポーターをしていた。

昨日はたいしたことないと思っていた左手の手首が痛んできたのだ。よりによって手首を突くなんて、不注意にもほどがある。泉は自己嫌悪に陥った。

吉野泉は27歳。普通の大学を卒業して3年ほど広告会社で働いたが、ピアノへの夢をあきらめきれず国立の芸術大学に入りなおした。

父が他界したのは幸いにも泉が就職したすぐ後だったが、それからしばらくして泉は自分がやりたいのはやはりピアノだと気づいた。泉の母は実家の静岡で親戚の家に身を寄せ、農業の手伝いで何とか食べている状態である。

もはや父という後ろ盾もなくなってしまった今となっては、もう一度勉強するなら泉は自分の手で稼いだお金で全てをまかなわねばならなかった。

自分のピアノの腕に疑いを持ちながらも、大学に受かってしまった泉は、学費だけはなんとか働いていたときの貯金でまかない、生活費をアルバイトで稼ぐ生活となった。

アルバイトも音楽教室の講師と銀座のピアノバーの2つをかけもちである。

昨日はピアノバーの日だった。店の外でならいざ知らず、店の中であんな喧嘩が起こるとは誰も予想していなかった。

おまけにあのガイジンとその連れの変な男…


「壁にぶつかって、変な風に手をついちゃって。昨日はなんともないと思ってたのに」


泉が答えると、博久はサポーターをはめた泉の手を取った。博久はそれをめくって見た。

「あんまり痛いようなら、きちんと包帯巻いてもうちょっと強めに固定した方がいいよ。俺んちに来る?」

博久の家は大学のすぐ近くで個人病院をやっている。博久はそこの院長の息子だった。

「ヒューヒュー、博久くん。泉にはやさしいねぇ」

一緒にいた石井真紀が冷やかした。真紀は同じピアノ科だったが、大学に入ってからはじめたライブハウスでの歌手活動に入れ込みすぎて、既に3年留年していた。

泉より年下だったが、今年一緒になった同級生たちには3年も留年したつわものだと思われている。

「なんだよ。みんなだって来たいならいつだって歓迎するぜ。親父に一番でかい注射器でビタミン剤打ってもらえるように言っとくからな。針の真ん中に開いてる穴がしっかり見えるやつ」

「なにそれ」

真紀は博久を一笑に付した。

「ねぇ、泉。それより昨日さ、アリオンですっごい噂聞いちゃった」

いつになく真剣な様子で真紀が言った。真紀は泉のもう一つのアルバイト先、アリオン・ミュージックで泉と同じようにピアノ講師のアルバイトをしている。

アリオンは老舗の楽器店で、決して上向き加減の会社ではなかったが、学生の間でも就職先として根強い人気があった。

今時の音楽などやっている学生にとっては、就職先を探すのは至難の業である。大学を卒業しても演奏家を目指すものはごく少数だし、かといって卒業しても音楽関係のところへ就職するのは結構難しい。

だから、学生たちは学生のうちにここでアルバイトをし、そのまま就職できればこんなに良いことはないと考えている。泉も真紀もいずれはアリオンで働くことができればと思っていた。

6月の初めに、アリオンでは3年次の学生アルバイトに就職希望票が配られ、泉も真紀もこれに応募した。それまでの仕事ぶりなどが評価されれば、今年中には内定が出るはずだった。


「すごい噂って?」

「アリオンって今、経営状態がすごく悪いみたいじゃない?それで親会社のレグノからテコ入れがあるらしいのよね」

「テコ入れってどんな?」

真紀が言ったとおり、講師たちの間でももう大分話題になっていたが、アリオンは最近、都心にいくつかできている蔵野楽器に押されて業績が落ち込んでいるらしい。

アリオンは老舗ではあるが、それにあぐらをかいてこれまで何の努力もしてきていない。

泉は真紀と一緒に新しく出来た蔵野楽器へ偵察に行ったこともあるが、店内のコーディネートや、受け付けの感じの良さ、レッスンのフレキシビリティなど、どれを取ってみてもアリオンは見劣りしてしまう。

「4月ごろから外資のコンサルが入って、アリオン全体の経営を見直してるって話があったじゃない?これまではレグノ本部の方でいろいろやってたみたいだけど、いよいよ楽器店のほうも多分大きなリストラがあるって」

「リストラ…それって、阿部先生の情報?」

「うん」

阿部はアリオンのピアノ科の上級講師だった。40を過ぎたばかりだが、最近はプレーヤーとしても売れっ子で、他の楽器のミュージシャンたちに呼ばれることが多くなった。

アリオンとしては手放したくない人材だ。その阿部と真紀は最近とても仲が良い。

去年、泉がアリオンで働きはじめた時、阿部は明らかに泉に興味を持っていた。既婚者である阿部に、泉は何度か食事に誘われた。

しかしその度に泉は断ってきた。真紀にはその事は知られていないはずだが、自分がなびかなかったからといって、今度は真紀に手を出してくるなんて…

泉は阿部に呆れると同時に、真紀が変なことに巻き込まれなければ良いがと思った。


「でも、講師の方はリストラって言っても、生徒がいるんだからそんなに簡単にはいかないでしょ」

「さぁ、どうだかね。だってコンサルだよ。それも外資の。そんなこと考えられる人間をアリオンに呼べたってことにはまだ救いがあるけどね」

「ほんと!」

泉と真紀は2人で大笑いした。学生とはいえ、泉も真紀も外で働いている経験がいろいろあるので、アリオンのやる気のない体質が一体どこまで続くのか心配していたのだ。

大手だからといって会社がつぶれない時代ではないし、やる気がないとは言っても学生にとってはアリオンは腐っても鯛だった。有望な就職先が減るのも困る。