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 カデンツァ 第一章   


                        -5-


その日の夕方、2人がそろってアリオンへ行くと、副店長の高梨温子が2人を呼び止めた。

「ああ、ちょうど良かった。あなたたちは来るのがわかってたからわざわざ連絡しなかったんだけど、今日、本部から社内改革推進部の人たちが来て、講師の皆さんと懇談することになってるの。7時から10番教室で。講師は全員参加なので、あなたたちも出席して頂戴ね」

「7時からって…追加時間分、出るんですか?」

真紀がすかさず訊ねた。音楽教室の講師たちは、契約社員としての扱われているが、泉と真紀は時間で働いているので、講師と言ってもアルバイト契約である。拘束時間についてはきちんと払ってもらわなければならない。

「店長と相談します」

温子はそう言ってきびすを返し、受付の奥へ入ってしまった。

「ほんとに払う気あるのかしらね?」

真紀は温子の後姿にイーとやった。

「それより、本部からの人たちって、昼間、真紀が言ってたあの話の…」

真紀と泉はお互いに顔を見合わせた。

「そうね。たぶん」

一体何の話だろうか?本当にリストラ?泉は真紀と別れて、5時から始まるグループレッスンの部屋へ急いだ。生徒たちに悪いとは思いながらも、懇談の話が気になって、その日のレッスンはどうも気が乗らなかった。

初めのレッスンを終えて泉がロビーに行くと、阿部と真紀が隅のテーブルで話をしているのを見つけた。

「こんばんは。先生は今日は、わざわざ?」

泉が挨拶すると、阿部はにっこり笑った。

「そう。呼ばれたんだ。何だろうね?って今話してたとこ」

「そろそろ時間でしょ?」

真紀が阿部を促して立たせた。そして泉の腕に自分の腕を巻きつけ、10番教室までの廊下を歩いた。

教室の中は、椅子とテーブルが会議が出来るように対面で並べられていた。全部で30名ほどもいる他の講師たちは、ほとんど席に着いており、入って正面の席だけがなぜか空いている。

3人はどうしてもそこに座るしかなかったので、他の講師たちの後ろを回って席についた。

自分のかばんを足元に置いて椅子を引いたその時、泉は正面真中に座っている人間の視線に気がつき、あっと声をあげそうになった。

それはほんの数秒だった。泉の方を見つめていたのは、昨日、Jでピアノの前の席に座り、泉を緊張させたあの男だった。

「それでは、先生方もおそろいのようなのではじめたいと思います」

温子が声を発した。教室内のざわめきがぱたっと止んだ。隣に座っていた専務の鳴海が立ち上がった。

「ええと。皆さん、お忙しいところ、また夜遅くにお集まりいただきまして、どうもありがとうございます。社員の説明会を先にやりましたので、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、アリオンでは業績改善のため、今年度はじめに社内改革推進部という部署が本部に設置されました。今度そこからこちらのお2人がいらっしゃいました。これからA店の方をみていただくことになっています。今日は、講師の方々にもいろいろ意見をいただきたいということで、お集まりいただきました。では、自己紹介をお願いします」

鳴海に言われて立ち上がった二人は、昨日のあの男と、まだ30は過ぎていないと思われるもう一人の男だった。若い方の男が昨日の男に先を譲った。

「森嶋廉です。えーと、社内改革推進部から来たことになっていますが、本当はハーヴェイ&スウェッソン・コンサルティングという会社から出向してきました」

森嶋…泉はその名前に戸惑った。

この人、森嶋楽器の関係者?でも、違う会社からきてるのだからきっと偶然だわ…

そういえば、あの外国人は彼のことを『レン』と呼んでたっけ。昨日デイビッド・ブレナーがくれた名刺にもハーヴェイ&スウェッソン・コンサルティングと入っていた。

泉は自分の手にあった名刺を思い出した。あの名刺、どうしたかしら?

「専務からも話がありましたが、アリオン全体の業績改善のため、今年の初め、内改革推進部という部署が立ち上がりました。ご存知の通り、アリオンの業績は決してよくありません。私たちは約3ヶ月で店舗側の改善計画、準備をやってきましたが、ようやく各店舗の方で実践にはいります。社員の方々は当然ですが、講師の方々にもいろいろご協力をいただかねばなりません。今後ともよろしくお願いします」

廉は頭を下げた。泉はもう一度、廉の方を見た。

もりしま、れん…森嶋は講師の方を満遍なく見ていたが、泉と視線が合うと、口の端をちょっと上げた。

見られた?泉は真っ赤になって、顔を下に向けた。

「えーと、社内改革推進部から来ました、千葉克典です。僕はレグノからの出向です」

もう一人の若い方はそう言って、自己紹介をはじめた。

「僕は、フロアの方をいろいろやっていましたが、今年の初め、社内改革推進部に配置換えになりました。森嶋部長とはまだ3ヶ月の付き合いですが、本当にいろいろ勉強させてもらっています。皆さんと一緒に、がんばりますのでよろしくおねがいします」

ぱらぱらと拍手があった。リストラの話が広まっているので、とても歓迎ムードとはいかないが、だめになったアリオンをどう立て直していくのか、講師たちも興味はあるのだ。

「では、本題に入ります。お手元の資料をご覧下さい」

机の上に配られた資料を森嶋が説明し始めた。

業界全体の業績、アリオン・ミュージックの業績、各店舗の業績、その内訳、業績が悪化している理由についての考察、他店の動向、長期的な改善計画、直近の目標などについて記載された内容が、抜粋ということではあったが、非常に詳細に述べられている。

コンサルティングの会社が作る資料というのは、こんなにすごいものなのか…

泉は大学を卒業した後、たった3年ではあったが普通の企業に勤めていた。そこでは日々、一体どうやってお金をもうけるか、会社のいたるところで議論されていた。

しかし、ビジネスの世界から程遠いところにいるこの場の講師たちには、こういうものを受け入れる準備があるだろうか?

「……というのが、この資料の概要です。何か質問のある方は?」

説明を終えた森嶋が講師たちの顔を見回したが、誰も手はあげなかったので、森嶋は次の話をしようとした。

そこで、ヴァイオリンクラスの御大と呼ばれている峰が手を上げた。

「ちょっと先に行く前に、聞きたいことがあるんだけど」

森嶋は峰を指して「どうぞ」と言った。

「最近、噂になっちゃってるんだよね。近々リストラがあるって。そこんとこをはじめに説明してもらいたいんだよね。うちらは契約社員だけど、仕事を切られるなら次を探さなきゃなんないからさ」

他の講師が小声で口々に肯定しているのが聞こえる。

森嶋は再度講師たちを見回し、その後、鳴海も下を向いて何も言わないのを見て取ると、腕を組んで言った。

「確かに、採算のとれていない店舗の社員を何人も雇って置けるほど、アリオンはうまくいっているわけじゃないので、社員については最悪の場合、こちらが意図したとおりに働いてもらえない方についてはそういうこともあるかもしれません。しかし契約社員、つまり講師の皆さんは、基本的にその対象ではありません」

講師たちの間から、ため息のようなものがもれた。

「他に何かありますか?」

森嶋は峰から他の講師たちに視線を移したが、それ以上何も質問はでなかった。