温子に怒られることは覚悟していたとは言え、やはりアリオンに行くのには気が引けた。しかし、そこではもっと具合の悪いことが起こっていた。
泉がスタッフルームに入っていったのは6時を半分回った頃だった。
入り口に入るやいなや、「どうもすみませんでした」と謝ったのだが、そこには温子と鳴海、そして森嶋が憮然とした様子で何か話しこんでいた。
「今頃何しに来たのよ」
温子が冷たい低い声で言う。
「本当に、どうもすみませんでした」
泉は、状況が良くわからずもう一度頭を下げた。
「あなたのせいで、生徒さんが怒ってかえっちゃったのよ! 全く! この間といい、今日といい。ちっとも反省してないじゃないの!」
「高梨さん、少し声を抑えてください。ロビーに生徒さん、いらっしゃるんですから」
鳴海が外を気にしている。森嶋は泉のほうを振り向いて言った。
「アリオンでこれからも働くつもりなら、レッスンを直前にキャンセルするようなことをしてもらっては困る。別の日に振替えると言っても、これでは契約を守らないのと同じだ」
怒って帰った生徒は誰だったんだろう?
連絡したとはいえ、そういうことになってしまった以上、森嶋が文句を言うのは当然のことだ。
泉はまた頭を下げて「すみませんでした」と謝った。
「すみませんですまないわよ!あなたのせいで、私まで疑われてるんだから!」
温子がまたキーキー声で叫んだ。鳴海が温子をなだめたが、温子はなぜか声を出して泣き始めた。
「吉野さん、君はもういいです。次のレッスンの準備をしてください。廉も早く行かないと遅れるだろ」
鳴海はそう言って、温子を部屋の奥の給湯室の方へ連れて行った。
鳴海が森嶋のことを廉と呼んだのはなぜだろう?
森嶋は憮然としたまま自分のほうをじっと見ながら出て行った。まるで今起こったことを人事のように思いながら泉はスタッフルームを出た。
ロビーでスタッフの尾崎が泉に声をかけた。
「吉野さん、大丈夫?」
「ええ。何とか。ごめんなさい。すごく迷惑かけたでしょう?」
泉は温子がここでヒステリーを起こしたに違いないと思っていた。
「まぁ、いつものことなんだけどね。でもあれは高梨さんが悪いよ。彼女、君からもらった電話で生徒に連絡するのに、自分でやるって言っておいて、忘れちゃってたんだよ。それで生徒さんが来てしまって、そこでまた謝ればいいものを、君の悪口を言い始めたもんだから、生徒さんが怒っちゃってね」
ああ、それで…
温子は泉をなぜか目の敵にしている。真紀のことも嫌っているが、私ほどではない。
はっきりした理由はわからないが、自分が行けなかった大学の学生というのがそもそも気に入らないのだとスタッフは噂していた。
「本当にごめんなさい」
泉はもう一度尾崎に謝って、講師室へ向った。
|