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 カデンツァ 第一章   


                        -33-


白金の家に戻ってドレスを選んでいるとき、その電話は鳴り出した。

あの女…うるさいったら。

「はい」

理恵は低い声で電話に出た。

「理恵さん? 永田です。今日のパーティはグランド・スペリオールで18時30分からです。遅れないようにお願いします」

「わかってます。いちいち電話してきてくださらなくても結構よ。スケジュールはちゃんと管理していますから」

「では、またあとで」

「ええ」

永田は理恵と話をするのが嫌なので、いつも必要最小限のことしか言わない。理恵も永田となるべく口を聞きたくなかったので、早々に電話を切った。

一体こんな生活がいつまで続くのだろう。今日も母親は出かけてしまっていない。たぶんあのマネージャと一緒にいるに違いない。

父親はこれから会うことになるが、永田とべたべたしている姿は本当にみっともない。

理恵はむかむかする気持ちを抑えながら、着替えを済ませて出かける準備をし、タクシーで赤坂へ向かった。

ホテルのロビーに入り、よく知った会場の方へ歩いていくと、理恵はまたデジャヴの空間にはまってしまったような気がした。

まただ。また同じ。

知った顔ばかり。

テーブルに並べられた料理も、この間見たのとほとんど同じ。

理恵はまるで間違い探しでもするように、会場内のいつもと違う何かを探した。ひな壇の上の方に「アジアレコード事業協会 20周年祝賀パーティ」とある。

もしかして、『アジアレコード協会』と『20』の数字ははめ込みになっているのでは?そうしたら何度も使えるじゃない。そんなこと絶対しないだろうけど、ちょっといいアイデアじゃない。

理恵はばかばかしいと思いながら、情けなくて涙が出てきそうになるのを必死でこらえた。

どうしてこんなに嫌な思いをしながら毎度、こんなところに来なきゃいけないの。まるで拷問だわ。かえってピアノでも弾いてるほうがよっぽどまし。


「そんなに嫌なら、来なければいい」

声のするほうに振り向くと、森嶋廉がそこに立っていた。相変わらず文句のつけようのない男っぷり。

この間の話が決まっていたら、ここにこの人と一緒に来ていただろうか?それとももうこんなところに来てはいなかっただろうか。

うちの親は話を進めたいと言ったらしいが、仲介した音楽振興協会の理事は、廉がまだ結婚するつもりがないらしいと言って先方から謝ってきたと伝えてきた。

とんだ恥さらしだわ。確かにもともとこの人はそんなことを言っていたわけだけれど。

「あなたも決して喜んでここにきたわけじゃないでしょ」

理恵の言葉に廉はふと微笑んで、隣に座った。

「今日はお父さんは?」

「さぁ。もうすぐ来るんじゃない。でも遅いわね。何してるのかしら」

理恵の不機嫌は直らなかった。父の話をされればなおさらだ。

「この間は悪かった。こちらから断るようなことはなるべくしたくなかったんだが」

「いいんです。別に。今に始まったことじゃないし。私もそうしてきたから」

理恵は素直に言った。本音を言うと、廉とだったら、ちょっと付き合ってみたかった。こんなハンサムな男とあたることもなかなかないし、それなりに話も面白いのに。

「お見合いでなかったら、あなたは一体どうしてここに来たの?」

理恵はその他の理由がどんなものか、全く想像できなかった。私はそのためだけにここに来ているのよ。

「ああ。僕は単純に仕事の顔つなぎ。今日は父と一緒だから。こういうところに来れば一度にいろんな人に会えるだろ?」

「そうなの。ふうん」

廉のビジネスがどういうものか理恵にはわからなかったが、レグノの跡継ぎなのだから、当然そういうこともしておかなければならないのだろう。ああ、めんどうなこと。



そうして廉がボーイからもらったシャンパンを理恵に差し出したとき、理恵はすぐ近くの空いた扉に父の姿を見つけた。

「あ、お父さま」

そう言って理恵は椅子から立ち上がり、扉の方へ歩いた。

扉の外で理恵が見たのは絶対に見たくないものだった。永田が父にぶら下がるようにして激しく口づけしている。

「このメス犬!」

理恵は大声で叫んだ。廊下には誰もいなかったが、会場の中から廉が驚いて飛び出してきた。

父と永田は本当に驚いてぱっと離れ、理恵を呆然と見ていた。

理恵は思わず廉が渡したシャンパングラスの中身を秘書にぶちまけた。父親の唇が永田の真っ赤な口紅で赤く染まっている。

理恵はきびすを返して、「行きましょう。こんな馬鹿な人たちに付き合ってられないわ」と言って廉の腕を取った。

廉は小さく理恵の父親に会釈して理恵の後をついてきた。



ホテルの外の庭で、理恵はいらいらしてその辺を歩き回った。そして突然「何よ!もう!」と言って泣き出した。

「どうして、こんな目にあわなきゃならないの? 父も母もあの女も、私のこと馬鹿にしてるわ!」

きっと街中でもあんなことを平気でしているんだわ。あの女は。

許せない。許せない!




廉は理恵が泣くのをしばらく腕組みして見ていたが、上着のポケットからハンカチを取り出し、理恵に差し出した。

理恵はそれを取って涙を拭いたが、なかなか止まらず、最後には廉の胸に身体を預けた。

こうなるともうどうしようもない。廉も理恵と一緒に庭に置かれているベンチに座った。

子供が見るには確かに不適切な光景だ。父親と愛人が絡んでいるところなんて。

理恵には何か危うい感じのところがあるが、もしかすると、親が親でなくなるようなこういう場面に何度も出くわしているのではないだろうか。廉は理恵が「父も母もあの女も」と言ったことが気になっていた。


しばらくして、少し気持ちがおさまった理恵は「遊びに行く!」と言い出した。

「どこへ? もう帰ったほうがいいんじゃない?」

廉は言ったが、理恵はそれを許さなかった。

「全く、あなたって人は毎度同じことを言うのね。行くと言ったら行くわ。あなたは帰りたいなら帰れば」


理恵の父親に一緒だったことを見られてしまっているのに、まさかこのまま彼女を放って帰るわけにはいかない。この調子だと、何をしでかすかわかったもんじゃない。

廉は内心うんざりしながら、理恵の後についていき、ホテルの玄関でタクシーに乗り込んだ。