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 カデンツァ 第一章   


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9時を回って最後のレッスンが終わった後、泉はそこにやってきていた阿部に声を掛けられた。

「泉ちゃん。もしかして、これからデラロサに行くんじゃない?」

「ええ。そうですけど」

白地に濃い青のストライプのシャツにすらっとしたチノパン、先のとがったアメリカンブーツがよく似合っている。奥さんの見立てかしら。泉は阿部のファッションだけはいつも感心していた。

「真紀ちゃんが出るって聞いたんで、僕も行こうかと思うんだけど」

「あー…そうなんですか」

真紀のところへって、よく平気で口に出せるものだわ。

「車拾っていくから一緒にどう?」

泉は阿部と一緒に行くことをちょっと躊躇した。けど、別に私には何もしないだろう。泉は思い直した。

「はぁ。じゃ、ご一緒させてください」



デラロサは大学の近くのライブハウスで、特に音楽系の大学生たちがオーディションを受けて出演することで昔から有名なところだった。

以前から、真紀はピアノの弾き語りで、博久は自分のジャズバンドで出演枠を獲得している。その夜は偶然、真紀のピアノ弾き語りと博久たちのジャズバンドのステージが両方演目にあがっていた。

泉たちがデラロサに着いた時、ちょうど真紀の出番がやってきた。

店のステージに一番近いテーブルに奈々子がひとりぼっちで座ってきょろきょろしていたが、泉の姿を見つけてうれしそうに手を振った。

奈々子の座っている席に歩こうとしたその時、泉は店の端の方のテーブルに理恵がいるのに気がついた。そして、理恵の連れが誰かを知って思わず足を止めた。

「おやおや、森嶋さんだ。彼もなかなか隅におけないね。あんな若い子と…」

泉と視線の先に気づいた阿部がつぶやいた。

泉は一瞬、心の中で激しく動揺した。しかし何とか阿部にちょっと笑みを返してそのまま奈々子の席に向かった。

「泉さん。いらっしゃい。待ってたのよ。私なんだかすごく心細くて…」

「そうだったの。遅くなってごめんね。あ、友人の岩瀬奈々子さんです」

泉は慌てて阿部に奈々子を紹介した。

「えーと、こちらは阿部先生。奈々ちゃんは知ってるよね?」

阿部はいくつかライブハウスに出ているし、真紀と連れ立って奈々子も何度か見に行った事はある。奈々子はにっこり笑って「はじめまして。岩瀬です」と挨拶した。

奈々子が席につくやいなや、真紀のステージが始まった。

暗い店内にステージ上の一箇所だけライトが当たる。今夜の真紀はきれいだ。赤い短いドレスにぴたっとした飾りをつけた髪がよく似合っている。

1曲目のサマータイムが終わって拍手を受けているとき、真紀は泉たちの席の方を向いて、うれしそうにちょっと片手を挙げた。