バナー


 カデンツァ 第一章   


                        -35-


石井真紀がこの店で歌っていることに驚いていた廉は、その後、もっと驚かされることになった。なぜなら、真紀が合図した視線の先に、泉がいたからである。

そしてその隣には阿部。

どうしてあの二人がこんなところに…?さっきまでアリオンにいたのに。

そういえば、アリオンで初めて泉に会った日、彼女は阿部と一緒にいたっけ。

廉の頭の中に、疑念がわき起こった。

泉は阿部と付き合っているのか?

だから俺が誘ってもなかなかいい返事をしないのか…

けれど、もし付き合っているのなら、このあいだ車の中でどうして彼女は嫌だと言わなかった?

そんな女か?

廉は首を振った。





廉の様子を見ていた理恵は、廉の見ていた方に泉や奈々子がいるのに気がついた。

「あら。吉野さんだわ。森嶋さん、もしかしてご存知なの?」

理恵が訊くと、廉はそれでも視線を奪われるように泉を見ていたが、「ええ、彼女、アリオンでアルバイトしているので。今、ステージにいる石井さんもですよ」と答えた。

「そうだったの。彼女、そのせいで担当教授に目をつけられてるのよ」

理恵はあんまり考えもなしにそのことを口にした。

「目をつけられてるって?」

「私たちのような楽器専攻の学生はあんなに毎日アルバイトなんてしないから。練習時間がとれないでしょ? そんなことするくらいなら、はじめから大学なんて無理だわ」

「吉野さんは、そんなに成績が悪いの?」

「そんなことはないけど…この間、音教コンクールの候補にも私たちと一緒に選ばれてたし。あ、ただあれはピアノじゃなくて作曲だったけど」

私たちと一緒にをさりげなく言ったつもりだったが、白々しかっただろうか。しかし、理恵の思いは見事に外れた。

「作曲? 作曲なの?」

廉が驚いたように言う。

「そうよ。ピアノじゃなくて、作曲。ピアノ専攻なのにねぇ」

理恵は皮肉を言ったつもりだったが、廉はそれを聞いて席に沈み、黙り込んでしまった。

どういうこと? この人まで私を無視するの?

理恵は廉の様子をしばらく窺っていたが、耐え切れなくなって椅子から立ち上がった。

「別の店に行くわ。こんな下手な歌、聴いてられない」




ステージでは真紀の歌が続いていたが、理恵が突然立ち上がったことで客席の目は一斉に理恵に向いてしまった。

廉は我に返って理恵と一緒に席を立ち、憮然としている理恵を店の隅に連れて行った。

そのとき、廉は自分の方を注視している泉に気がついていたが、理恵を連れて店を出ることだけで精一杯で、どうすることもできなかった。



その夜遅く、自分の部屋に帰った泉は、もらった課題を弾くでもなく、ただ頭の中に思いつくままピアノを弾いていた。

高田に勧められていたので、とりあえずレコーダーは回していたが、曲ができるかどうか、そんなことは泉の頭に全くなかった。

頭の中を占めているのは、今日デラロサで見た廉のことだ。

廉が去った後、博久がテーブルに戻ってきて、理恵とあのサラリーマンは付き合ってるみたいだねと言った。

以前にもデラロサに二人で来て、理恵がそんなことを言っていたと。

全くばかげている。結局、私はやっぱり銀座にいる女性たちと同じように見られていただけだったんだ。一体、何を期待していたんだろう。

泉はピアノを弾きながら自分を笑った。