バナー


 カデンツァ 第一章   


                        -36-


大学で前期の試験が終わり、夏休みに入ると、泉は大学の紹介で博久や奈々子とともに、昼間、台場のオープンカフェでアルバイトをはじめた。

博久も奈々子も、もちろんアルバイトなどしなくても良かったが、博久は自分の好き勝手に使う小遣い稼ぎのため、また奈々子は泉や博久と少しでも一緒にいたいという単純な理由から、泉たちと同じように働いていた。

休みの間、泉は午前中はピアノを思う存分弾くことができ、また午後のカフェでのアルバイトも博久や奈々子と一緒で、本当に充実していた。

また週に3日は高田が研究室を空けてくれていたので、泉は高田の持っている機材を使って試行錯誤を繰り返した。

高田の研究室には学生だけでなくいろいろな人間が出入りする。特に高田は新しいものをどんどん取り入れる方だったので、そういうセンスを持った人間が集まるのだ。

その彼らとも交流ができて、泉はだんだん今風の曲づくりがどんなものなのかを理解するようになった。

夕方からは普段と同じようにJとアリオンが交互にあり、1日が3本立ての忙しい日々だった。

夏休みに入る前、泉はアリオンで2度ほど廉と顔をあわせた。しかしお互い何も言わなかった。夜にも電話が何度かあったが、泉は廉の携帯からとわかると電話を取らなかった。

あんなことを聞いてしまった後で、どういう態度で廉と接すればいいのか泉にはわからなかったし、廉から言い訳を聞くのも嫌だったのだ。

休みに入ってからは、泉は表面上、Jでもアリオンでも普通にすごしてはいた。しかし、心の中ではどこか緊張していた。

彼とはいずれどこかで会うことになる。その時、自分が彼を避けてきたことを責められるのではないかと思い、また一方では、そんなに自分のことなど気にかけているわけがないとも思った。


今年の夏は、アリオンの創業60周年のパーティがある。

そのためにアリオンのスタッフは皆ばたばたしており、泉が察するに、廉もおそらくそれに巻き込まれているに違いなかった。


だから、Jのステージに廉からまた花が届いて泉は驚いた。

一体何のつもり?これは、忘れていないということか、それともごめんなさいか…

お礼を言うべきだったが、泉はそれでもやはり自分から電話は出来なかった。廉と話をすれば、自分が望んでいないような抜き差しならない状態になるような気がしていた。


オープンカフェのバイトを始めてから1週間ほど経ったある日、泉の携帯にルーシーから電話が入った。

声に元気がない。ルーシーは、兄のデイビッドが本当は今週何日か休みを取る予定だったのに、急に仕事が入って休めなくなってしまったらしかった。

夜も遅いし、さびしいのでできれば夕食を一緒にしたいとルーシーは言った。

その日、泉は夜にJのバイトが入っていた。カフェが終わってからJのバイトまでに2時間ほどしかないが、それでも良ければと言って、泉はルーシーと約束した。

帰り際、泉はにぎやかな方が良いと思い、博久と奈々子を誘った。二人とも「ああ、このあいだの…」となにやら言いたげだったが、顔を見合わせて笑い、一緒に行くといってくれた。

一人で何とか電車に乗れるようになっていたルーシーは、有楽町までやってきて、ちゃんと待ち合わせのマリオンの切符売り場の前にいた。「ルーシー!」と声をかけると、不安げに下を向いていた顔がぱっと明るくなって、こちらを向いた。

「イズーミー!」

本当に寂しかったんだわ。日本に一人きりでいても確かに面白くないに違いない。泉はなんだかルーシーがかわいそうになった。

夏休みなんだし、デイビッドももう少しかまってあげればいいのに。せっかく日本に来たのに、何にもしないで帰ることになってしまいそうだ。

その後、泉たちは銀座まで歩いてタイ料理の店へ行き、安くておいしい食事を楽しんだ。

博久は英語は怪しかったが、奈々子は小さい頃、父親の仕事の関係でワシントンにいたので英語は普通に話せる。ルーシーも年の近い彼らとは楽しく過ごせるようだった。

食事が済んで、泉はJに行かなければならなかったが、博久と奈々子、ルーシーは、一緒にデラロサに行くことにした。

彼らと一緒なら心配することはない。博久と奈々子に感謝しながら、泉はJに急いだ。