バナー


 カデンツァ 第一章   


                        -37-


その日、11時の最後のステージを終え、泉は着替えるために従業員控え室に向かった。ロッカーを開けると携帯がぶるぶるしている。慌てて電話を取ると、どこかで見たような電話番号が表示された。誰だっけ?
電話に出ると、聞き覚えのある声がした。

「森嶋です」

心臓がどきんと鳴って、泉は電話を落としそうになった。今日も花をもらった。ここ2日続けてだった。けれど、泉は失礼だとは思いながらも、礼を言うのをためらっていた。廉と話をしたくなかったからだ。

「あの…」

泉が言いよどんでいると廉がそれを制した。

「ルーシーを知らないか? まだ部屋に帰ってきてないらしい。デイビッドがすごく心配してるんだが」

ルーシー! まだ帰ってなかったの?泉は頭を抱えた。

「あの…今日の夕方、一緒にご飯を食べました。それから私の友人と一緒に上野のライブハウスに…」

廉が黙っている。苦虫を噛んだような廉の顔が思い浮かんだ。

「上野って、デラロサか?」

「そうです」

泉の返事を聞くやいなや、廉は「わかった」とだけ言って電話を切った。怒ってるのはわかるけど、そんな切り方ってないわ。泉はため息を一つついて大急ぎで着替え始めた。これはデラロサに行かざるを得ない。

廉は一体どこにいたのだろうか? 電話番号は携帯の番号ではなかった。アリオン?

私の方が先につけるかしら…

着替えを急ぎ、Jを出た泉はタクシーをつかまえて、上野へ向かった。

タクシーの中で泉は奈々子に電話をかけ、博久もルーシーもまだ一緒にいること、真紀とルーシーがかなり酔ってしまっていて、まだ酔いをさましているところだと言うことを聞き出した。

そしてルーシーの兄が迎えに行くこと、泉もそちらへ向かっていることを伝えると、奈々子はほっとしたようだった。

おそらく博久の仕事が終わるまで、帰るに帰れない状況だったのだ。泉は奈々子に申し訳ない気持ちになった。

デラロサでは、今日予定されていた演目は全て終わっていたが、時間が遅いので客はほとんど帰ってしまっており、ステージ上ではまだ学生の練習のようなセッションが続いていた。

泉が店に入っていくと、すぐに奈々子が気づいて手を振った。テーブルの上に真紀がつっぷして眠っており、ルーシーはソファの片隅で丸くなって同じように寝ていた。博久はまだ店の片づけをしている。

「奈々ちゃん、ごめんね。こんな時間まで。もう帰らないと、終電出ちゃってない?」

奈々子の家は千住なので、それほど遠いわけではないが、両親が心配しているに違いない。

「大丈夫。ちゃんと家には電話したし、車で帰るから。それより泉さんこそ。バイトで疲れてるのに、大変だったでしょ?」

昼間一緒にバイトをして、その後もまたJに行った事を知っている奈々子は泉のことを気遣っていた。

「ううん。私は大丈夫。部屋も近いし。ルーシーはお兄さんがここに迎えに来るから。今までいてくれてありがとう。真紀は私が連れて帰るし、ご両親がきっと心配してるから、奈々ちゃんも早くおうちに帰って」

「泉さん、大丈夫? 明日もあるのに」

奈々子は心配そうに泉を見た。

「大丈夫よ。それより、ほんとにごめんね。それに、ありがとう」

「もう、やだ。泉さんたら」

奈々子は掃除をしていた博久とちょっと話をした後、後ろ髪を引かれるように、泉に申し訳なさそうに店を出て行った。

奈々子に本当に悪いことをしてしまった。両親に叱られなければいいけど…



奈々子が出て行ってすぐ、デイビッドと廉が店に現れた。

テーブルの上につぶれた真紀を横目に見ながら、デイビッドはルーシーを揺り起こした。

「Wake up, Lucy!」

ルーシーはほとんど眠り込んでいて返事にならない。

「こんなになるまで飲ませて、一体どういうつもりなんだ」

廉が泉に非難を浴びせた。ここにいなかったのを知ってるくせに。泉は返事をしなかった。