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 カデンツァ 第一章   


                        -40-


車のスピーカーからは、枯葉が流れていた。泉は押し黙ったままだった。

怒っているだろうか…ああもちろん、そうに違いない。けど…廉は意を決した。

「耐えられなくなった」

しばらくして、隅田川の下流の方まで来たとき、廉は車を止めて言った。

「君に無視されるのは、もうたくさんだ」

青くライトアップされた小さな橋の上で車を止め、廉ははじめて助手席に静かに座っている泉の方を振り返った。

着飾っているわけでもなく、ただの普段着なのに今日もきれいだ。

案の定、泉は「どうして?」という顔をしている。

「無視って…いただいたお花のことをおっしゃっていらっしゃるんだったら…確かに、お礼もちゃんと言わないで…」

「そんなことじゃない!」

彼女は本当はわかっている。俺がどうしたいのか。どうしてこんなにいらいらしてるのか。

「…そんなにどならなくても、耳はまだ丈夫ですから」

「そうやって、憎まれ口はきくんだな。僕は、真剣に話をしようとしてるのに」

「別にふざけてるつもりはありません」

泉は下を向いてしまった。廉は思い直したようにため息をついた。

彼女は俺と向き合ってくれるつもりはないんだろうか。俺がいつもひどいことを言うからか?

「昨日は悪かった」

昨日のことだけは先に謝っておく必要があった。自分が誤解したままだと、泉に思われたくない。

「今朝、デイビッドから電話があって、昨日、ルーシーが君にいろいろ迷惑かけたって話をきいた。それに、前にも表参道のレストランで騒ぎを収めてくれたって。それはこの間、君がアリオンに遅れてきた日だったんだな。デイビッドも本当に申し訳ないと言ってた。今度会ったら、金も返すって言ってたよ」

泉は下を向いたまま、何も答えなかった。

何を今更と思っているだろうか?俺たちが今まで何も知らずにいたことをどんな風に思っているのだろうか?



「どうしたら、機嫌を直してくれる?僕はこの間、君を車で送っていった時に戻りたいと思ってる。あの時、僕がどんな気持ちだったか…」

「下心でいっぱいだって、おっしゃいました」

それを聞いた廉は、一瞬声を失った。そして、うんざりした様子でハンドルに頭をうずめた。

「そうだ、確かにそう言った。まさか…だから? だからか? 僕を無視したのは」

「そんな子供じゃありません。お花のことは、お礼もしないでとても失礼だったとは反省していますけど」

「でも、君はあれから電話も取ってくれないし、僕を避けるようにしてるじゃないか」

泉にこんなことを言いたくはなかった。せめて彼女に振り向いて欲しかった。

ルーシーがやってきた日、車の中で手を取ったあの日にできれば戻りたい。

もしこの間、理恵といたことを怒っているのなら、それはうれしいことでもあるけれど、弁解する余地を残しておいてほしかった。



「私、森嶋さんのこと、好きになるかと思いました」

泉のその一言は、廉の心臓を一突きした。この女はこういうことを平気で言う。

「でも私、よく考えたら森嶋さんのこと何も知らないし、それに今、誰かを好きになって、あれこれ悩む時間がないんです」

これは良い方に考えていいのだろうか?それとも、俺とは付き合いたくないということの言い訳?

「君は、誰かを好きになるのに、あらかじめ時間と理由がないといけないって言うの?僕はあっという間に打ち落とされたのに」

泉をはじめて見た日から、どうしても彼女が気になった。その理由は、廉も考えてみたがわからなかった。

初めは彼女が弾いていたあの曲が、頭に残ってぐるぐる回っていてそれに気を取られていた。

けれど、彼女に会うたび、彼女自身に惹かれていく自分に気づいて、それをどうすることもできなくなってしまったのだ。

廉は自分がどう思っているか、ちゃんと泉に知ってもらいたかった。

しかし、次に泉が発した言葉は廉を愕然とさせた。

「……他の女性にもそう言ってらっしゃるんじゃないですか?」