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 カデンツァ 第一章   


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ああ、やはり…理恵のことが思い浮かんだ。

この間のことを怒っていたのだ。理恵とは同級生だと言うし、まして、理恵のあの感じからすると、彼女とは学校ではあまり良い関係ではないのかもしれない。

「君が言ってるのは、富田さんのこと?」

泉はまた視線を落とした。廉は覚悟を決めていた。もし、その話になったら、隠し事はしないでおこうと。

「正直に言うと、彼女と見合いをしたんだ。1ヶ月ほど前。親がお膳立てした、サプライズアレンジメントだった。だけど、その話はこちらから断った。僕は君と付き合いたいと思ってるから」

廉はここで話を切って、泉の様子を窺った。何の反応もない。大事なことを言ったのに。

「この間、彼女とデラロサで一緒にいたのを君に見られた時は、本当にどうしようかと思った。あの日は彼女とはたまたまパーティで会って、そこで彼女にちょっと面白くないことがあって、成り行きで一緒にデラロサに行くことになってしまったんだ。けど、彼女とは別に何でもない。もう断った話だ」

しかし泉は、「そうですか……」と言って、黙り込んでしまった。

何を考えてる?俺は大切なことを言ったんだ。聞こえなかったのか?

「僕を見て」

廉は泉の手を取った。もうはっきり言うだけだ。こんなことをしていても埒が明かない。

「僕は…君と付き合いたいと思ってる。…ちゃんと聞こえた?」

泉は廉と目を合わそうとしなかったが、小さく頷いた。

「僕を見て」

廉はそう言って、泉の頬に手をやって顔を上げさせた。泉の不安げな顔。何を考えてる?

「僕は…君に惹かれてる…だから、僕と付き合ってほしいと思ってる」

泉の瞳がまた不安におののいた。何がそんなに不安なんだ。

「いやか?」


言葉を失ってしまったような泉に廉は畳み掛けるように訊いた。もし、ここで断られたら…そんなことは考えたくないが、こんなうじうじした気分のままでいるよりはあっさり振られた方がよっぽどいい。

泉は自分の気持ちを自分で確かめるようにまた下を向いたが、決心したように顔を上げ、口を開いた。

「私、自分の生活だけで本当に精一杯なんです。練習しなくちゃいけないのに、アルバイトに追われてるから時間がなくて、練習しないで学校に行って、先生に叱られてばかりだし…」

この期に及んでまだそんなことを言うのか。それなら徹底的に話を詰めるまでだ。

「だから?時間がないから僕とは付き合えないって言うの?じゃあ、時間があったら、僕と付き合えるってこと?それなら、僕は君の生活費を見てあげてもいい。だったら時間はとれるだろう?」

「なん……!」

泉は驚きと失望で顔をゆがめた。

「私、そんなつもりはありません!私のこと、一体なんだと思ってるんですか?」

「君をばかにするつもりも、侮辱するつもりもない。僕は前からそう思ってた。大体、アルバイトなんてして欲しくない。君を人目にさらしたくない。特にJであんな格好で働いて欲しくないし、アリオンでも男の生徒はみんな君の担当からはずしたいくらいだ」

泉はそれを聞いて真っ赤になった。

「君は誤解しているようだが、君がそうして働いて、お金のかかる学校へ自分で行ってることはすごいことだと思ってる。練習する時間を確保するのも大変だろう。僕にはできなかったし、やろうとさえ思わなかった。だけど、それがそんなに大変なんだったら、僕は君の助けになりたい。たとえ君が僕と付き合ってくれなくても」

一旦告白してしまえば、後は簡単だ。自分が怒っていた理由だって、こんなに簡単に説明できる。廉はいい気分だった。

「もちろん、君がうんと言ってくれたほうがもっといいが…」

廉はそう言って、泉の腕に手を伸ばした。泉はまた下を向いてしまったが、手を取られても引っ込めはしなかった。よしよし。いい感じだ。

「森嶋さん…」

「君が僕と付き合うつもりがあるなら、僕の前で二度とそんな風に呼ばないでほしい」

「…廉さん」

泉が廉をそう呼んだ瞬間、廉はつかんだ腕を自分の方へ引き寄せて、泉の身体を抱きしめた。

「僕の提案を受け入れてくれるんだ」

廉が泉の耳元でささやく。

「いいえ。アルバイトはやめないし、援助も受けません。だって、自分の生活だもの。だけど…」

「…だけど?」

「あなたのこと、もっと知りたい」

廉に羽交い絞めされるように抱かれている泉は、顔を上に向けてちょっと苦しそうに言った。

廉はうれしさのあまり、泉の唇を奪いそうになったが、危うく思いとどまって額にキスした。

こうして身体を抱いていると、泉の体温が上がってくるのが良くわかる。やせているのに柔らかい。女性の甘ったるい、いいにおいがする。このまま身体を離したくない。

しかし、泉が腕の中でためらうようにしたのを感じて、廉は自分に残っていたありったけの自制心を振り絞って、泉の身体を開放した。

今日はここまで。これ以上はだめだ。

「もっと知りたいと言うなら、よろこんで教える。でも、そういうことなら僕は手加減しないから。覚悟しといてくれよ」

廉は車を出した。